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2017年2月の『視野を広げる必読書

最後の秘境 東京藝大

“秘境”東京藝大に集う天才たちの姿から「人間らしさ」を考える

『最後の秘境 東京藝大』
 -天才たちのカオスな日常
二宮 敦人 著
新潮社
2016/09 287p 1,400円(税別)

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東大をめざすAIに“足りないもの”とは

 東京大学の入学試験に合格できる人工知能(AI)の開発を目標とする「東ロボ」プロジェクトをご存知だろうか。このプロジェクトは正式名称を「人工知能プロジェクト『ロボットは東大に入れるか』」といい、2011年に国立情報学研究所(NII)が始めた。AIの進化を、大学入試問題を指標に客観的に測ることを目的に始められたもので、2021年春までの東大合格を目標としていた。

 人工知能である「東ロボくん」は、2016年度の大学入試センター試験の模試で偏差値57.1を獲得。得点は525点で、全国平均の454.8点を上回った。すでに平均的な大学受験生を上回る学力があることになる。さらに、東大の二次試験を想定した論述式の模試では理系数学の偏差値が76.2に達したというから驚きだ。

 東京大学は言うまでもなく日本全国からトップクラスの秀才が集まる国内最難関の教育機関だ。もしプロジェクトが今後も継続して目標を達成したならば、そうした秀才たちとAIが学力面で肩を並べることになる。

 しかし、実は東京大学よりも入るのが難しい大学が日本にある。その一つが国立大学法人東京藝術大学(東京藝大)だ。東京藝大の2016年度入試の志願倍率は8.0倍であり、東大でもっとも入学しづらい理科三類(主に医学部に進学する)の5.63倍を上回っているのだ。

 本書『最後の秘境 東京藝大』では、「芸術界の東大」とも呼ばれるこの大学がどういう雰囲気で、どんな学生がいて、何が教えられているのかを、現役学生や卒業生らのインタビューをもとに生き生きと描写している。

 著者の二宮敦人氏は、1985年に東京都に生まれ、一橋大学経済学部を卒業。2009年に『!』(アルファポリス)でデビューを果たした小説家だ。ユニークな着眼と発想、周到な取材に支えられた多数の小説を世に送り出し、人気を博している。本書は二宮氏初のノンフィクション作品だ。

 実は二宮氏の妻は、東京藝大の美術学部彫刻科に在籍する現役学生である。本書では、自らの妻をはじめとする藝大生(東京藝大の学生)のユニークな言動と、その背後にある思いなどを軽妙な文体で紹介している。

 しかし、本書に描かれた藝大生たちの、一風変わった赤裸々な実態は、ただ面白いだけではない。それらから、人類の「知」というものは学力テストなどでは測りきれないものであることを再認識させられる。それは、ユニークな研ぎ澄まされた感性、そして磨き上げられた技術や技能に支えられたものなのだ。

 東ロボくんは、AI技術の進歩とともに、東大に入れるだけの学力を身につけられるかもしれない。だが、藝大生に求められる感性や技能を備えるのは、とうてい無理だろう。

「何年かに一人天才が出れば、それでいい」

 東京藝術大学は、日本でもっとも歴史のある芸術系大学だ。ともに1887(明治20)年に設立された官立の旧制専門学校「東京美術学校」と「東京音楽学校」が、1949(昭和24)年の国立学校設置法の施行時に統合して誕生。現在は美術学部と音楽学部の2学部構成だ。卒業生には、横山大観、東山魁夷、瀧廉太郎、山田耕筰、岡本太郎、坂本龍一、フジコ・ヘミングなど、そうそうたるアーティストたちが名を連ねる。

 しかし、東京藝大で学ぶことは芸術家のステータスではあるものの、それが必ずしも将来を約束してくれるわけではない。2015年度の卒業生486人のうち就職者は自営・非常勤と合わせて93人。大学院や海外留学などの進学者が168人。そして、「進路未定・他」が実に225人もいる。継続して芸術を学ぶために進学するか、アルバイトなどをしながら創作や演奏活動を続ける人が約8割を占めているのだ。

 ある卒業生は、入学時に学長から「何年かに一人、天才が出ればいい。他の人はその天才の礎(いしずえ)。ここはそういう大学なんです」と言われたという。東京藝大をめざす人は、かなり厳しい道を覚悟する必要があるようだ。

 そもそもトップレベルの実力がなければ入試に合格できない。音楽学部のピアノ専攻やバイオリン専攻をめざすのであれば、2〜3歳から楽器を始めているのが当たり前。コンクール上位の常連で、コンサートを開いて客を呼べるレベルではじめて合格の可能性が出てくる。しかしそんな猛者(もさ)たちも、一次試験ではたった5分の演奏で半数近くが落とされる。

 美術学部の場合、現役合格率はおよそ2割、平均浪人年数は2.5年。5浪、6浪もざらにいる。美大受験予備校でデッサンなどの基礎技術の練習を3年ほどみっちり積まないと合格圏が見えてこない。

 しかも、入試で問われるのは技術だけではない。それがあるのは当然として、その上に「才能」というあやふやな何かを感じさせることが求められる。

 過去には、鉛筆、消しゴム、紙を渡されて「好きなことをしなさい」という入試問題もあったそうだ。ある受験生は、試験時間中、黙々と鉛筆の芯を削り続け、その芯を細かく砕き、自分の顔にくっつけていった。それが終わると、パーンと紙を自分の顔に叩きつけ、紙についた黒い跡を「自画像」と題して提出。結果は合格だった。はたしてAIはこんな解答を思いつくだろうか。

アートは人が人であるための一つのツール

 厳しい競争を勝ち抜いて入学した後には、「何年かに一人の天才」をめざし、徹底的にその独創性や技術・技能に磨きをかけていく。本書では、さまざまな分野で努力を重ねる藝大生たちが次々と登場する。

 没頭すると40時間もぶっ通しで絵を描き続ける日本画専攻の学生がいる。1日9時間の自主練習を毎日続けたおかげで、「目が見えなくなっても弾ける」と豪語するピアノ専攻の学生も。また、ある工芸科の学生は、中学生の時に見た150年前のからくり人形を正確に再現しようとしている。彼は、1年以上かけて自ら図面を起こし、ゆうに1,000を越える部品をすべて手づくりしているのだ。アスファルトの路上にアスファルトでできた車を置いたら面白いのではないかと思いつき、本当にアスファルトを材料にして自動車を作った先端芸術表現科の学生もいる。

 一人ひとりが常人離れした努力を重ね、この世で他の誰も真似できない独創性を追求するこの地、東京藝大は、まさに本書のタイトルにあるように「最後の秘境」と呼ぶにふさわしい。先端芸術表現の大学院を修了したばかりの卒業生は「この世にまだないもの、それを作るのがアート」だと言い切る。

 東京藝大のメインキャンパスは台東区上野にあり、美術学部の校舎は上野動物園とフェンス越しに隣り合っている。ある時、工芸科の学生が、動物園の檻の前にある「トラ」や「ライオン」などと書かれた立札そっくりの札を作り、「ホモ・サピエンス」と書いてフェンスの動物園側にかけた。この札は動物園からの抗議で撤去されたそうだが、これほど気の利いたジョークはない。

 前出の大学院を修了した卒業生は「アートは人が人であるための一つのツール」とも言っている。芸術こそが人間を人間らしくする知的活動ということだろう。藝大生たちは、その生きたサンプルといえる。

 冒頭に紹介した東ロボプロジェクトは、2016年11月、目標としてきた東大合格を断念すると発表した。東ロボくんは、模試の総合点では順調に点数を伸ばしてきた。しかし、数学や世界史など、論理的思考や蓄積した知識の検索により正解できる科目は得意な反面、文章の意味を理解する読解力がなかなか向上しない。それゆえ、国語や英語などの科目で東大に合格する水準まで成績を上げるのは難しいと判断されたのである。

 AIが飛躍的に進歩することで、将来さまざまな仕事が人間から奪われることが危惧されている。しかし、東ロボプロジェクトで判明したAIの得手不得手からすると、論理的な推論や情報の検索の組み合わせでできるような仕事は徐々にAIが行うようになるかもしれない。そうであるならば、私たち人間は、より人間らしい知的活動を強化し、AIとすみ分けるべきではないか。

 もちろん、私たち一般人には東京藝大に集う天才たちと同レベルのことはできない。だが、彼らが独創性を追求する姿勢は大いに参考になるはずだ。本書で、人間が人間らしくあるにはどうすればいいか、ぜひ感じてとってほしい。(担当:情報工場 浅羽登志也)

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2017年2月のブックレビュー

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