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2018年9月の『視野を広げる必読書

『カルピスをつくった男 三島海雲』

国民飲料カルピス「初恋の味」のルーツは、モンゴル遊牧民の「共感力」だった!

『カルピスをつくった男 三島海雲』
山川 徹 著
小学館
2018/06 356p 1,600円(税別)

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内モンゴル伝統の乳製品をヒントに誕生したカルピス

 世代を超えて老若男女の日本人に愛されてきた「国民飲料」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。「緑茶」と答える人も多いかもしれないが、明治維新以降に日本で開発された飲料に限れば、「カルピス」という答えが上位に入るに違いない。

 カルピスは現在、アサヒ飲料の100%子会社であるカルピス株式会社が製造・販売を行っている。同社は2016年にスタートした2代目法人であり、カルピスを開発したのは1916年創業の醍醐味合資会社を前身とする初代のカルピス株式会社(開発当時はラクトー株式会社)である。1919年に産声を上げたカルピスは、2019年に100周年を迎える。

 かつて「初恋の味」というキャッチフレーズで知られ、本書『カルピスをつくった男 三島海雲』によると、国民の99.7%が「飲んだ経験がある」というデータ(2007年のカルピス株式会社による調査)もあるカルピスだが、その生みの親の名前を知る人は多くないのではなかろうか。約100年前にカルピスを発明したのは、三島海雲(1878-1974)という人物である。

 本書は、日本における健康飲料の先がけとしてカルピスを世に送り出した功労者のダイナミックな生涯を追った評伝。その生い立ちから、カルピス開発の経緯、経営哲学と手法などを、文献や関係者への取材、著者自身による三島のモンゴル高原への旅の追体験などをもとに明らかにしている。著者の実体験も踏まえたリアルな筆致によるライフヒストリーは、大河ドラマを見終わったような読後感を与えてくれる。

 著者の山川徹氏はノンフィクションライター。1977年、山形県生まれ。著書に、北西太平洋の調査捕鯨に同行した『捕るか護るか? クジラの問題』(技術評論社)、『東北魂 ぼくの震災救援取材日記』(東海教育研究所)などがある。

 「モンゴル高原への旅」と書いたが、カルピスのルーツは内モンゴル(現在の中国 内モンゴル自治区)にあるとされている。2016年に放映された、女優の長澤まさみが出演したカルピスブランドのCMで紹介されたので、知っている人も多いかもしれない。このCMでは「内モンゴルの発酵乳をヒントに、『カルピス』は生まれました。」というコピーが使用された。

 「三島海雲がカルピスの原液を内モンゴルから持ち帰った」と勘違いする人もいるそうだが、本書によるとそれは事実ではない。上記のCMコピーにある通り、カルピスは、あくまで内モンゴルの遊牧民たちの伝統食である乳製品を「ヒント」に作られたのだ。

軍馬の買い付けのための旅が国民飲料の開発につながる

 三島海雲は、日露戦争前の1902年に、日本語教師として中国大陸に渡った。その後、現地で雑貨などを売買する行商会社を立ち上げ、そのうちに日本陸軍から軍馬の買い付けを依頼されることになる。その依頼に応えるために、良馬を求めてモンゴル高原に旅をしたことが、現在もコンビニや自販機で購入して喉を潤すことができるカルピスの誕生につながったのだから、興味深い。

 はっきりと記録に残ってはいないそうだが、推測では1907年の冬、三島は北京で、モンゴル高原のヘシクテン旗(旗は清朝以降に用いられているモンゴル民族の行政単位)に住む有力貴族と出会った。その時に聞いたヘシクテン旗の馬の話に興味をそそられ、現地への旅を決意したのだ。

 当時体調のすぐれなかった三島は、現地で「先祖のジンギスカン時代から伝わる秘薬で、王者の食物」と説明された乳製品をふるまわれた。著者によると、それはジョウヒと呼ばれる食べ物だった可能性が高いという。

 そのおかげで体調が回復し、ジョウヒの効果に感銘を受けた三島は、そのレシピを学んだそうだ。

 三島は1915年に帰国し、早速ジョウヒの商品化に取りかかる。そして翌年「醍醐味」という名で発売、大ヒット商品となる。ところが、原料となる牛乳からわずかな量しか生産できなかったため、牛乳の供給不足に陥り、生産中止を余儀なくされる。

 1917年には醍醐味の生産後に出る脱脂乳を発酵させた飲料「醍醐素」を発売。これがカルピスの元になる。三島が当時の工場長と一緒に試行錯誤しながら新商品の開発に取り組んでいた時、ふとしたひらめきから脱脂乳に砂糖を混ぜて一昼夜おいてみた。すると、これまでにない美味の液体ができあがった。カルピスの誕生の瞬間である。

 その後、カルシウムを加えるなどの調整を行い、1919年7月7日、晴れてカルピスが発売された。

ペイフォワードでモンゴル人の共感力が日本に伝わる

 ところで「ペイフォワード(Pay it forward)」という言葉をご存じだろうか。日本語では「恩送り」とも訳される、「善意を他人へ回す」という考え方だ。2000年に製作された米国映画『ペイ・フォワード 可能の王国(原題:Pay It Forward)』は、この考え方(行動原理)をテーマにしている。

 ペイフォワードでは、誰かから受けた恩、またはかけられた善意をその相手に返す(ペイバック、恩返し)のではなく、別の誰かに与える。与えられた人は、与えてくれた人に感謝しつつ、別の誰かに何かをしてあげることでその気持ちを渡す。こうした行為が連鎖していくことで、社会全体に善意が広がっていくことになる。

 三島海雲は、内モンゴルの有力貴族から、乳製品で健康にしてもらうという恩を受けた。そしてその恩を、健康に良いカルピスを開発することで、日本国民に送った。これは、まさしく壮大なペイフォワードの実践と言って差し支えないだろう。

 だが、三島のペイフォワードは、それだけではなかったと思われる。三島は、モンゴル高原の人々の「共感力」をも連鎖していったのではないか。

 本書の著者は、100年以上前に三島をもてなした内モンゴルの有力貴族の末裔(まつえい)に、現地で面会している。ひ孫にあたるその人物は、昔話で聞かされてきた三島について「日本人でありながらモンゴル人の心を持っていたのではないか」と語っている。

 著者は、現地で実際にジョウヒを食し、モンゴルの遊牧民たちと触れ合う中で、彼らの共感力の強さを感じたという。若者たちに、現代日本の貧困や虐待について話すと、涙ぐみながら本気で心配してくれたというのだ。

 一方、浄土真宗寺院の長男として生まれた三島は、モンゴルへの旅では就寝前に必ず華厳経を読んでいた。そしてその教えの中にある「重々無尽(じゅうじゅうむじん)」という言葉を好んだそうだ。これは、人を含むあらゆる物事が互いに関係を作用し合っていることを意味する。だからこそ、互いに助け合わなければならない――それが三島のモットーだったのだろう。

 著者は、この重々無尽が、モンゴルの遊牧民の共感力に重なるように感じたと述べている。

 三島は、企業経営における自らの指針を「国利民福(こくりみんぷく)」という言葉で示している。「国家を富ませるだけでなく、国民を豊かに、何よりも幸せにしなければならない」という意味だ。

 1923年の関東大震災に際しては、被災者に無料でカルピスを振る舞った。1964年の東京オリンピックでも選手村で選手がいつでも自由にカルピスを飲めるように常備した。

 元社員ら関係者によると、こうした行為は決して企業の広告や売名行為ではなかった。三島は常に、純粋に「カルピスは体に良いものだから、たくさんの人に飲んでもらいたい」という気持ちだったようだ。私利私欲や「会社をどう大きくしていくか」という発想はまったくなかった、といった証言も多い。

 社員に対しても、売り上げを競わせることもなく、共感をもって接していた。本書にはそれがわかる数々のエピソードが紹介されている。

 ただ、現実は厳しく、結局カルピスの事業会社は他社の傘下に入ったり、買収されたりした後、一度は解散に至った。だが、三島が望んだように、飲料としてのカルピスは存続し、今もたくさんの人に愛されている。

 本書は、三島海雲や著者自身のモンゴル紀行を楽しみながら、企業の目的とは何か、より良い社会をどう作っていくか、といった根源的な問いについても考えさせてくれる。何より、三島海雲の名前と、その国民の健康と幸せのために尽力した足跡は、記憶にとどめておくべきだろう。

情報工場 チーフエディター 吉川 清史

情報工場 チーフエディター 吉川 清史

東京都出身。早稲田大学第一文学部卒。出版社にて大学受験雑誌および書籍の編集に従事した後、広告代理店にて高等教育専門誌編集長に就任。2007年、創業間もない情報工場に参画。以来チーフエディターとしてSERENDIP、ひらめきブックレビューなどほぼすべての提供コンテンツの制作・編集に携わる。インディーズを中心とする音楽マニアでもあり、多忙の合間をぬって各地のライブハウスに出没。猫一匹とともに暮らす。

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