日本での実機稼働がもたらす意義

量子力学の原理を用いた量子コンピューターは、スーパー・コンピューターやPC、スマートフォンを含む従来型の“古典コンピューター”では困難とされていた課題を解決できる可能性があるとして期待されている。今回その実機が神奈川県川崎市に設置された。27量子ビットのプロセッサーを搭載したIBMのゲート型商用量子コンピューター「IBM Quantum System One」である。

「ibm_kawasaki」と名付けられたこの量子コンピューターの設置は、2019年12月に発表された東京大学との「Japan-IBM Quantum Partnership」に基づくもので、東京大学が使用権を有し、「量子イノベーションイニシアティブ協議会」のメンバーなどと共同で利活用していく。

2016年からIBMはクラウドを介して量子コンピューターシステムへのアクセスを提供してきた。無償で利用できる「IBM Quantum Experience」の登録ユーザー数は35万人近くに達し、実行された演算回数は1日平均20億回を数え、商用利用するパートナープログラム「IBM Quantum Network」のメンバー企業・組織は150を超えている(2021年9月現在)。

日本での実機稼働の意義について、東京大学理事・副学長の相原博昭氏は「量子技術、特にソフトウェアの進化だけではなくハードウェアも同様に性能を向上させるには、ユーザーがどう使うかという視点を、ハードウェア開発に取り入れることが鍵になります。目の前に実機があることで、どういう使い方ができるか、ユーザーが何を求めているのかが分かり、技術向上を加速させることができます」と語る。

相原博昭氏
東京大学 理事 副学長
相原博昭

「目の前にある」ことで
期待されるインスパイア

実機稼働がもたらすメリットは、研究開発の側面だけにとどまらない。“量子ネイティブ”と呼ばれる先進の人材育成にも大きな効果が期待される。「以前は量子力学を学ぶために本を読んで方程式を解き、長い時間をかけて理解を試みてきました。今はハンズオン(体験学習)で量子力学が動いていることが実感できるので、理解の速度が速まります」と相原氏は教育における変化を指摘する。学部生などの早い段階から難解な量子力学の本質を理解し、量子コンピューターを当たり前のように活用する量子人材が増えることで、利活用の領域は広がっていくだろう。

東京大学には今回もう1つ新設された施設がある。「量子コンピューター・ハードウェア・テストセンター」だ。量子コンピューターのアプリケーションに不可欠な極低温のマイクロ波コンポーネントや制御エレクトロニクスなど、安定稼働を実現するための技術の研究開発を、東京大学とIBMが共同で行う。

「実機の存在は学生や研究者に大きなインパクトを与えますし、何よりも研究者のモチベーションも高まります。実機が近くにあることで、ソフトウェアとハードウェアの両方の進化が必要なことも身近で感じられ、次に何が必要なのかというインスパイアを得られるでしょう」と相原氏。企業と大学が共同で研究開発を行うことで、次世代の量子コンピューティングに必要な要素技術が生まれることが期待される。

東京大学に設置された量子システム・テストベッド

東京大学に設置された量子システム・テストベッド

大きな成果を上げつつある産学連携

日本での量子コンピューターの活用研究に向けて、慶應義塾大学に、2018年5月に量子コンピューターの産学連携研究センター「IBM Quantum Network Hub at Keio University(以下、IBM Quantum慶應ハブ)」が開設された。

この IBM Quantum慶應ハブには現在、JSR株式会社、株式会社三菱UFJフィナンシャル・グループ、株式会社みずほフィナンシャルグループ、三菱ケミカル株式会社、三井住友信託銀行株式会社、ソニーグループ株式会社、株式会社日立製作所という業種を超えた企業が集まり、実ビジネスへの活用を見据えた量子コンピューターの応用事例の研究に取り組み、順調に成果を上げつつある。IBM Quantum System Oneの日本での稼働開始に伴い開催された「IBM Quantum in Japan 2021 & Beyond」では、この研究に携わった研究者によるパネルディスカッションも行われた。

研究者によるパネルディスカッション

その中で紹介されたのが「有機EL発光材料性能予測」の研究だ。この成果に関する論文が世界的に権威のあるNature専門誌に掲載された。JSR株式会社 マテリアルズ・インフォマティクス推進室 次長の大西裕也氏は「材料開発には材料に求められる性能を細かく制御する精度が必要です。古典コンピューターでは限界にきている材料開発を量子力学の力で加速しようという取り組みの一環です」と語る。

有機ELの発光効率を高めることができれば、電力消費の削減につながる。その発光材料の状態を量子コンピューターで計算すればより精密な計算が行える。しかし、そこには実機特有のノイズの発生が課題となっていた。今回、このノイズを取り除き、エラーを低減させる新たな測定方法を開発し、計算精度を大幅に向上させることに成功したのである。

このプロジェクトで中心的な役割を果たした三菱ケミカル株式会社 Science & Innovation Center 主席研究員の高王己氏は「研究成果の意義は2つ。量子コンピューターが高速で計算できることと、計算手法のアルゴリズムとエラー緩和、そしてソフトウェアの工夫を組み合わせることで、エラーを低減できることを示したことです。他の材料開発にも応用できます」と語る。

IBM Quantum 慶應ハブでは、金融分野での量子活用の取り組みも行われている。慶應義塾大学 理工学部 教授 量子コンピューティングセンター センター長 山本直樹氏は「金融分野においては、膨大なデータをいかに量子コンピューターに読み込ませ、処理させるかが課題です。そこで、データを少ない演算回数で効率的に量子コンピューターに読み込ませる手法を開発し、経済指標の効率的計算に応用しました」と語る。またエラーに起因する「ノイズ」が複雑なデータ処理に有効に働くことがあるとして、ノイズを積極的に利用する試みも進められている。

研究を通じて感じた量子コンピューティングの可能性について、慶應義塾大学 理工学研究科 特任講師 渡邉宙志氏は「化学計算の分野においては、計算精度、大規模分子系、現行計算の加速といった方向性で期待されているが、この3つは運用していく上での違いがあるので、実機の成熟過程でどの方向で効果が出てくるかを見極めていく必要がある」とした。

量子コンピューティングは、進化を続けている。慶應義塾大学 山本氏は「ソフトウェアの発展はハードウェアにも依存する。量子コンピューティングの研究開発と発展には、ソフトウェアとハードウェアのタッグが必要になる。その意味で日本での実機稼働は、開発上で大きな利点を生み出す。ソフトウェアの開発拠点として、今後も連携して開発を進めたい」と期待を述べた。

日本独自の取り組みで
社会実装を加速していく

「IBM Quantum Network Hub at Keio University」の成果からも分かるように、量子コンピューターの領域では実用化に向けた取り組みが急速に進んでいる。特に量子コンピューター技術活用の取り組みは「Winner takes all(勝者総取り)」と言われ、その進展は日本の経済、社会に大きなインパクトを与える。その戦略的重要性の認識から生まれたのが量子コンピューティングの社会実装の加速を目指す「量子イノベーションイニシアティブ協議会(QII協議会)」である。

東京大学が中心となって2020年7月30日に設立され、慶應義塾大学を初めとした「IBM Quantum Network Hub at Keio University」のメンバーに加え、電気、情報、エネルギーなどの分野から企業が参加。会長にはみずほフィナンシャルグループ取締役会長の佐藤康博氏が就任した。

QII協議会が目指すのは、日本独自の取り組みを通した、世界に先駆けた量子コンピューターの社会実装の推進だ。量子コンピューターを活用するためのエコシステムを構築することで、戦略的に重要な研究開発活動を強化し、産官学協力のもとに日本全体でのレベルアップと実現の加速化を図り、広く産業に貢献することを目的としている。

今回設置された「ibm_kawasaki」についても、まずはQII協議会のメンバー企業12社が共同利用していく。産学連携による社会実装を目指すQII協議会の今後の活動は、日本の量子コンピューティングの将来を左右する鍵となりそうだ。

さらなる進化に向けた
「ibm_kawasaki」の挑戦が始まる

これまで見てきたように量子コンピューターにおいて、日本は先進的な取り組みを展開し、産学連携についても強力な体制を構築している。今後の社会実装に向けて重要なのは、業種業態の垣根を超えた協力関係をさらに強化することだ。

「ibm_kawasaki」が設置されている「新川崎・創造のもり」の付近は地盤が固く、100年前は操車場として物流の要となっていたという。

日本IBM 常務執行役員 最高技術責任者の森本典繁氏は「人や列車が行き交う結束点があった場所に、ハードウェアおよびソフトウェアの先進技術のハブとなる量子コンピューターが設置されたのは必然だったのかもしれない。1964年の東京オリンピックの年に初めての汎用メインフレーム『IBMシステム360』が発表され、その翌年、横浜に日本の第1号機が上陸し、今とはかけ離れた計算能力やネットワークでオンラインバンキングを実現しました。量子の世界でも想像を超えることができるようになるはずです」と語る。

コンピューティングの新たな時代をけん引する量子コンピューティングの活用によって、どのようなイノベーションが生み出されるのか。これからも注目していくべきだろう。

研究者によるパネルディスカッション

IBM Quantum System One日本上陸(動画)

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※7月27日に「新川崎・創造のもり」で開催された式典より。左から、川崎市長福田紀彦氏、日本IBM 社長山口明夫氏、東京大学 教授・元総長五神真氏、東京大学 教授村尾美緒氏、参議院議員 自由民主党量子技術推進議員連盟 会長林芳正氏、東京大学 総長藤井輝夫氏、IBM シニア・バイス・プレジデント、IBM Research ディレクター ダリオ・ギル氏、文部科学大臣 萩生田光一氏、慶應義塾長 伊藤公平氏、駐日米国臨時代理大使 レイモンド・グリーン氏、QII協議会会長、みずほフィナンシャルグループ 取締役会長 佐藤康博氏、QII協議会メンバー、JSR 名誉会長 小柴満信氏