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先物・オプション投資の魅力

先物・オプション投資の魅力

現物とは異なる収益機会として注目が高まる先物・オプション取引。
個人投資家の参加も拡大する先物・オプション取引の魅力や投資戦略を紹介する。

  • 先物・オプション物語
    第5回

    先物の新規上場事情
    ~スタートダッシュが肝心

    ゆうじ。
    元証券ディーラー
     

    日本における先物・オプション取引の30年の歴史を、マーケットの第一線で活躍した元証券トレーダーが振り返る連載コラム。

    取引参加者が集まらないデリバティブ商品

    ゆうじ。氏 元証券ディーラー
    ゆうじ。氏
    元証券ディーラー

    日経225先物、TOPIX先物が上場して以降、色々なデリバティブが日本の市場でも誕生してきた。

    1997年5月16日、日経225先物取引の限月間スプレッドが取引開始された。

    スプレッド取引がなかった頃は、限月交代の時期に期近と期先の先物間のスプレッドが100円ぐらいの幅で開いたり縮まったりしていた。スプレッド取引が開始されて以降は、徐々にスプレッドが変動することがなくなっていき、いつでも一瞬で限月の乗り換えがスムーズに進むようになっていった。

    裁定取引業者など、大量の先物の玉(ぎょく)を乗り換えていかなければならない参加者にとっては、スプレッド取引の安定稼働、スプレッドの安定推移は非常にありがたいことだっただろう。

    ただ、筆者のように相場の揺らぎを狙って売買をするディーラーたちにとっては、メジャーSQ(特別清算指数)ごとの一大イベントであった限月交代がすんなりと終わるようになって、“美味(おい)しい”局面を一つ失ってしまうこととなった。

    スプレッド取引が登場したことで、もう一つ大きく変化したのは、限月交代の時期だ。

    スプレッド取引がなかった頃は、SQの2週間ほど前から限月交代が始まり、SQの1週間前には限月交代が完了して、期近の先物の取引は相当細ってしまうというのが常であった。

    しかし、スプレッド取引が登場して以降は、限月交代はいつでも一瞬で完了してしまうものになったせいか、SQの前日、取引最終日のギリギリになっても、限月交代したのかどうかわからないような状態が続くようになってしまった。

    日経225がらみの商品としては、2006年7月18日に日経225mini先物の取引も開始された。

    当初、この先物はうまくいかないのではないかと、市場関係者たちは思っていた。

    というのも、平成になって以降、新規上場されてきたデリバティブ関係の商品は、ことごとく取引参加者の集まらない状態となっていたからだ。

    94年に上場した日経300先物は、出足こそはよかったものの、数カ月たたずして取引はどんどんと細っていった。

    97年には、株券オプション取引が、98年には電気機器株価指数先物、輸送用機器株価指数先物、銀行業株価指数先物などの商品が誕生したが、これらを取引した者はほとんどいないだろうという状態で、放置されてしまうこととなった。

    これらの新しく作られた先物の中で、銀行業株価指数先物はニーズが出るのではないかと、筆者はひそかに期待していた。

    97年には山一証券や北海道拓殖銀行が破綻し、金融システム不安に拍車がかかり、銀行株は乱高下の激しい状態が続いていた。

    98年に入るとBIS規制基準の自己資本比率8%を割るかどうかの瀬戸際に日本の銀行はことごとく追い込まれ、銀行株のヘッジニーズはさらに高まっていった。

    銀行株は時価総額の大きいものが多く、TOPIX先物を使ってヘッジしていた参加者は多かった。

    しかし、TOPIXは東証株価指数という名の通り、東証1部の全ての銘柄が対象の指数であり、銀行株指数の値動きとかけ離れてしまうことは、よくあった。

    そこにきて、銀行業株価指数先物の上場である。

    この指数なら銀行の値動きをダイレクトにヘッジできるだろう。そんな思いで、銀行業株価指数先物に期待したのだが、取引参加者は全く現れなかった。

    これにはいくつか要因が考えられる。

    一つには取引所画面の制約。当時、東証の先物の板画面は2画面に分割できる作りになっており、TOPIX先物と債券先物を表示している者が多かった。

    銀行業株価指数先物を表示するなら、いちいち画面を切り替えてやる必要があった。その手間が、敷居を一段高くした。

    もう一つには、バックオフィスシステムの対応具合が挙げられる。

    新しい商品を取引するためには、証券会社のバックオフィスのシステムが対応する必要がある。

    しかし、証券各社が使うシステムを新しい先物に対応させるには、相当な金がかかるのである。新たな株式銘柄が上場したときには、無料で自動的に対応してくれるのだが、新しい先物商品に対応するとなるとシステム会社に高い金を取られてしまう。

    取引が活発化するかどうかわからない新商品のために、多額の設備投資をしてしまうのはリスクが高い。取引が活発化するのを見極めてから、その商品を扱えるようにすればよい。

    新しい商品が上場されたとき、市場参加者はその商品がどのくらい取引されるか、まずはウオッチする。だが、初期段階ではそうした理由で誰も取引をやらない(やれない)から、これは見ててもしょうがない商品だということになってしまう。こんな流れで、新しい先物は市場に根付かないまま、その存在を誰も思い出すことのない商品となってしまうのだった。

    日経225miniの成功

    そんなことがあったので、2006年に日経225mini先物が上場したとき、市場参加者は当初、取引に及び腰であった。

    「ミニ日経」初日売買高2万2345枚

    しかし、蓋を開けてみると、外資系のいくつかの証券会社が活発に取引をしていたことや、国内系のある証券会社のディーラー部門が集中的に日計り売買をしたことから、日経225mini先物は活況を呈して、そのまましっかりと定着していった。

    日経225mini先物で取引することで、裁定取引は日経225先物ラージでやるより、さらに精緻なポジションが組めるようになる。先物ラージは1枚でワンティック(価格の最小変動単位)1万円の勝負となるが、mini先物は1枚でワンティックごとに500円の勝ち負けとなることから、ディーラーのみならず、個人投資家も参加がしやすくなったことだろう。

    日経225mini先物が定着するにはそれなりの理由があったとも思えるが、これもスタートダッシュの時に取引がなされていなかったらどうなっていたかはわからない。

    先物の新規上場の時にはスタートダッシュが重要である。それにつまずいてしまうと、その後誰も板を見ることのない商品と化してしまう。

    日経225mini先物が定着し、育っていったことで、日経225という商品の厚みが増し、魅力が上がったことは間違いないだろう。

    ラージ先物とmini先物の2つの先物があることで、ディーラーたちも取引がしやすくなった。

    日経225mini先物ができた頃、2006年あたりが、デリバティブを取り扱う証券ディーラーの人数が一番多かった時期かもしれない。

    それから2年ほど後に訪れるリーマン・ショックあたりから、ディーラーの数はどんどん減っていくこととなるのだが……。

    ゆうじ。
    元証券ディーラー
    蟹座のO型。100kmマラソン11回完走のスポーツ派。
    1990年に大学の数学科を卒業して証券界に入る。延べ7社の証券会社で24年間、先物およびオプションのディーラーを務め、累計30億円の利益を上げた。超短期のデイトレード中心で、1日の最大損失は500万円、最大利益は6110万円、最大売買件数は3300件。月間最大利益が1億円なのに月間最大損失は800万円と、リスクマネジメントに優れているのが大きな特徴。ファンドの立ち上げに携わったこともある。業界人が交流する場「マーケットフォーラム」を数人で創設、運営してきた。著書に『日経平均 値動きのルール(30億円稼いだ伝説の元証券ディーラーが説く!)』(standards)がある。