ラ ベットラ ダ オチアイ オーナーシェフ/日本イタリア料理協会会長

落合務氏

お客さんの好みは変わる
料理人も変化は必要

 「日本一予約の取りにくいイタリア料理店」ともいわれる店のオーナーシェフ・落合務さんは、日本人のほとんどが「アルデンテ」という言葉を知らなかった時代に現地で修業し、日本に初めて本場のイタリア料理を紹介した。常に新たな食の提供に挑み続ける落合さんに、イタリア料理の魅力、料理を作り続ける原動力などを聞いた。

落合務氏

やる以上はトップを目指す 
本場の料理を求めて

 下町の裕福な家庭の一人息子として育った僕は、大学までエスカレーター式で進める私立校に進学しましたが、結婚・離婚を繰り返す父に反発。高校1年のとき「学校をやめて独立する」と宣言しました。内心、止めてくれるものと思っていたのに、父は即座に日本橋の洋食屋のコック見習いの職を見つけてきてしまったのです。

 成り行きとはいえ、やる以上はトップを目指したい性格で、19歳でホテルニューオータニに転職。半年後には憧れのフランス料理の調理場に就くことができました。ところがある日、料理長が僕と全く同じレシピ本や料理本を持っていることを知ります。「料理長でさえ本から得た知識で料理を作っているのか。ここで出しているような料理を、フランス人は本当に食べているのだろうか」と疑問を抱き、本場のフランス料理を知りたいと考えるようになりました。

 でも、気軽にフランスに行けるような時代じゃありません。それならばと、ホテルではなく“まち場”のフランス料理店へ転職しました。赤坂で高級フランス料理店「シド」、レストラン「トップス」、日本料理店「ざくろ」などを経営する桂洋二郎さんのレストランチェーンです。数年後、ほかの店に転職しかけたのですが、桂社長の店に残る条件でフランス視察旅行に行かせてもらえることになりました。28歳のときです。

社長命令でイタリアへ 
3年間20以上の店で修業

 1カ月半のフランス滞在中は毎日、ランチ2食、ディナー1食を食べ歩き、今まで見たことのない美しい盛り付けや素晴らしい味に感動しました。帰国の途中、飛行機の都合で3日間ローマに滞在することになりイタリア料理を食べ歩いたのですが、どの店でも魚は焼いただけ、肉はぶつ切り、付け合せの野菜やパンの切り方も適当――。イタリア料理の第一印象は決していいものではありませんでした。

 ところが社長に帰国報告に行くと「イタリアは良かっただろ?」と何度も聞いてきます。仕方なく「素材に手を加えない素朴な味わいで、毎日でも食べ飽きないですね」と答えるしかありませんでした。しばらくして社長から「イタリア料理の修業に行って来い」と命令が。社長は日本初の本格的イタリア料理店の開店を考えていたのです。

 ローマに到着したものの、言葉も通じず職探しもままならず困っていたところ、ホテルのボーイがある店を紹介してくれました。「給料は要りません」とお願いし働くことになりました。次の日その店に行くと、大きな男の人が僕の肩を抱いて手を握ってきたんです。一瞬ギクッとしましたが、不安そうにしていた僕への優しさだったんですね。その後ナポリやシチリアなどで約3年間20以上の店で働きましたが、どこでも親切に接してくれ、お国柄に引かれるようになりました。

本場「アルデンテ」貫くため
試行錯誤を続ける

 幸い耳がいい方だったので言葉はすぐに覚えました。でもそれ以上に大きかったのは、料理の歴史や文化を学べたことです。例えば、ニョッキは木曜に食べる習慣があるのですが、その背景にはキリスト教文化があります。こうした背景が分かると、作るときの気合も違ってくるというものです。3年弱の滞在を終え1981年に帰国。赤坂に開くイタリア料理店「グラナータ」を任されることになりました。オリーブオイルもほとんど輸入されていない時代、食材を求めて築地や輸入食品店を駆け回り、限られたもので本場の味を再現すべく必死でメニューを考えました。

 開店当日、100席の大型店なのに、本場の技を漏らしたくない社長の意向で調理担当は僕一人。ランチに大勢のお客さんが来店しましたが1時間待っても料理が出ないので、当然怒って帰る。2日目も3日目も同じ。社長が慌てて「落合くん、みんなに料理を教えてくれ」と言ったときは後の祭りで、あっという間に店は閑古鳥状態になってしまいました。

 さらに困ったのは、本場のイタリア料理をほとんどの日本人が知らなかったことです。日本人向けにするか本場の味を貫くか、試行錯誤が続きました。例えばカルパッチョは、イタリアでは肉料理ですが日本人は生肉になじみが薄い。そこで魚のカルパッチョを考案しました。苦し紛れのメニューです。一方で「この店のスパゲティは芯が残っている」とお客さんからクレームが入る。仕方なく日本風に軟らかくゆでると、社長から「いつか分かってもらえる。本場のアルデンテを守れ」と叱られてしまうのです。

変わらぬおいしさのウラには
20年間変化し続けるレシピ

 ある日「シェフを呼べ」と言われ「またクレームか」と出て行くと、イタリア人のお客さんが「日本人がシェフなのか?」と驚いて僕を見つめています。その人こそイタリア政府観光局長のフランチェスコ・ランドウッツィーさん。彼は日本人に「アルデンテ」を説明し、イタリア企業に勤める人や大使館関係者に「グラナータ」を紹介してくれました。イタリア料理の核となる部分はあくまでも貫き、アレンジした方がいい部分は変化させる――。試行錯誤を続けたかいがありました。その後バブル経済も重なり「イタメシ」ブームが起こり、84年に店は繁盛店に仲間入りしました。

 94年、大恩人である桂社長が急逝。張り合いがなくなった僕は、3回忌を待って退職することを決め、次に何をすべきか考えるようになりました。そのころイタリア料理は人気に乗って高級化していたので、質を落とすことなく手軽に多くのお客さんに喜んでもらえる店をつくろうと決めました。店名の「ラ・ベットラ」は定食屋とかメシどころという意味です。お酒を飲みながらディナーを楽しみ、1人5000円くらいで収まるよう設定したところ、おかげさまで「予約の取りにくい店」と呼ばれるようになってしまいました。(笑)

 53年間料理に携わってきましたが、今でも料理をするときは取材を受けるときより緊張します。時代とともにお客さんの好みは変わり、技術も進化しています。「いつも変わらずおいしいね」と言ってもらうには同じことの繰り返しではダメ。お店のメニューは20年間同じでも作り方は進化し続けているんです。それはどんな仕事でも同じでしょう。ビジネスパーソンの皆さんも、恐れずに変わり続けてください。僕はこれからも、お客さんの笑顔を原動力に変わり続けていきます。

スカイライン

進化の結晶が、いまここに。

 「趣味はほとんどないんですが、唯一の趣味がクルマ。現在も4台持っています。多いときには8台所有していたこともあるんですよ。以前、桂社長に買っていただいたクルマは30年以上たった今でも大切にしています。“速くなければクルマじゃない”が持論なので、スカイラインは若いときからの憧れです。R32に2台続けて乗っていた時期もあります。スピードだけでなく、かっこよさでも日本を代表するモデルですよね」(落合氏)
 究極の走りを追い求め、いつの時代も最新の技術で新たな歴史を刻んできたスカイライン。クルマの未来をけん引する「自動運転技術」にも、試行錯誤しながら挑戦し続けている。その一つが航空機の機体制御の仕組みを自動車へ初導入した「ダイレクトアダプティブステアリング」。ステアリングとタイヤの機械的つながりを切り離し、ステアリング操作を電気信号に変換しタイヤ角度を独立して制御可能に。俊敏で快適なハンドリングを楽しめるとともに、自動運転システムにも大きな布石となる技術だ。これまでにない新しいクルマの未来へ――。スカイラインの挑戦は続いていく。

※記事は2018年2月9日のものです。
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落合務氏

プロフィル落合務氏(おちあい・つとむ)

1947年神奈川県鎌倉市生まれ、東京都足立区で育つ。17歳でコック見習いとなり、料理の道へ。その後、ホテルニューオータニでフランス料理を学び、レストラン「トップス」へ。78年、28歳で初めてのヨーロッパ視察で初めてイタリア料理に出合い、2年8カ月間イタリアで修行。82年東京赤坂のイタリア料理店「グラナータ」オープンと同時に料理長就任。97年7月銀座に「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」をオープン。現在、東京3店舗、名古屋、富山に店舗を構える。著作多数、テレビ、雑誌への出演、講演などでも活躍中。

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