人的資本経営への挑戦

人的資本とは従業員が持つ知識や技能を指す。2023年3月期決算以降から有価証券報告書における「人的資本の情報開示」が義務化された。非財務情報の開示は世界的な潮流だが、開示が目的化し、人的資本経営の本質を見誤ることを危惧する声が出ている。そこで日経Smart Workプロジェクトでは、9月5日にシンポジウム「人的資本経営への挑戦」を開催した。人的資本経営の正しい理解や進め方、その推進によってもたらされる新たな企業価値について、各分野の専門家による提言、有識者からのメッセージ、最先端の取り組み事例などを発信した。

※Smart Work経営とは
日経Smart Workプロジェクトでは、多様で柔軟な働き方を通じて人材や組織のパフォーマンスを高めるとともに、イノベーションを生み、新たな市場を開拓し続ける好循環を作り出すことで生産性を最大化する経営戦略をスマートワーク経営と定義している。日経SmartWorkプロジェクトの詳細はこちらから。

正しい理解が不可欠

学識者からの提言

人的資本投資が経済成長を促す

小野  浩氏

一橋ビジネススクール
教授

小野 浩

人間の持つ知識や才能、スキルなどの能力は、金融資本や物的資本と同様、その価値は投資によって高められる──。人的資本と呼ばれるこの概念は古く、1776年のアダム・スミスの『国富論』まで遡ることができる。
 人的資本は、企業特殊的人的資本と一般的人的資本に区別される。企業特殊的人的資本とは、特定企業内のみで価値を生み出す能力だ。人材は企業内部の労働市場で育成し、そこで培った能力は外部の労働市場では通用しない。
 一方、一般的人的資本とは、どんな企業でも生産性を発揮する能力である。需要と供給に応じて競争原理が働く外部労働市場で重視されるのは一般的人的資本だ。
 企業が人的資本投資を行うべき理由は4つ。1つは経済成長に不可欠だからだ。人的資本投資は、労働市場全体の生産性を向上させるというデータがある。ちなみに日本の人的資本投資は先進国中最も低い。ここ30年の日本の低い経済成長の一因である。
 2つ目は人的資本と物的資本が相互補完の関係にあることだ。IT(情報技術)投資を行っても、それを使いこなす人材がいなければ、投資は回収できない。3つ目は、人的資本投資は必ず物的資本投資の収益率を上回るという経済理論による。
 4つ目は人的資本の陳腐化だ。人的資本の消耗率を年間38%とする研究報告もある。陳腐化を防ぐには継続的投資が不可欠だ。
 ではなぜ、日本では人的資本という概念が定着しないのか。第1に失われた30年の反動として経費削減が意識され、人材を資産ではなく、費用と捉える傾向が強まったこと。第2に内部労働市場が強く、人材を内部育成・調達する傾向にあること。第3に労働者側に教育は企業がしてくれるという甘えがあり、自己への投資が少ないこと。第4に労働者が外部労働市場での自身の価値をわかっていないこと。第5に博士などの学位を得ても賃金が学部卒と変わらないなど、一般的人的資本に対するリターンが低いことが挙げられる。
 例えば、日本企業の一般的な会社員の人的資本のストックを考えた場合、下図に示すように入社時は学校教育などで身につけた一般的人的資本がストックのすべてだ。しかし入社後、企業研修などによって企業特殊的人的資本が蓄積する。一方、一般的人的資本は陳腐化していく。年齢を重ねるごとにこの傾向は進み、社員の内部労働市場での価値は向上するが、外部労働市場での価値は低下する。
 このメカニズムによって、中高年は組織に閉じ込められ、転職が難しくなる。結果的に長期雇用となり、人材の流動性が低下。人的資本の適材適所が進まない。日本全体の労働生産性が低い理由の一つである。

正しい理解が不可欠

学識者からの提言

職務限定したジョブ型を根幹に

鶴  光太郎氏

慶應義塾大学
大学院商学研究科教授

鶴 光太郎

 高度成長期から1980年代までの日本において、メンバーシップ型雇用は企業への帰属意識を高め、チームワークに優れた同質的な人間の集合体をつくり、製造業を中心に競争力の強化へとつながった。
 しかし、過去30年に大きな環境変化が起きた。マクロ経済でいえば、高成長で安定した状況から、低成長かつ不確実性が増大し、最近は想定外の事態が頻発するようになった。企業戦略は独創性や発想力が重要視され、イノベーティブな人材が求められるようになった。また少子高齢化や人口減少、女性の社会進出が進み、単一的・同質的な働き方から多様で柔軟な働き方を選択するようになった。 物的資本を重視し、労働者はコストであるといった考え方から、企業に付加価値を生む無形資産との認識が高まった。インターネットや人工知能(AI)などテクノロジーの進展で、時間と場所の同一性を前提にしない働き方などが可能になった。
 こうした環境変化により、求められる人材像が変わり、メンバーシップ型人材は不適合となり、職務を限定したジョブ型人材が必要とされるようになった。
 メンバーシップ型雇用は、スキルの保有と利用に乖離(かいり)が生まれやすい。一方、ジョブ型雇用は仕事やポストが要求する能力やスキルを満たす人を採用するので、スキルの保有と利用の乖離が少ない。大きな環境・技術の変化の中でリスキリング(学び直し)の必要性が声高に叫ばれているが、リスキリングへの対応を考えるとスキルに応じたジョブ型雇用が前提条件になる。つまり、ジョブ型雇用を人的資本経営の根幹に置く必要がある。
 日経スマートワーク経営調査では、広義ジョブ型雇用の動向を調べている。例えば、地域限定正社員の導入は、既に6割強に達している。一方、職務限定正社員は21年に5割を突破、正社員として特定業務プロを採用している企業も3分の1強に達している。注目すべきは、約6割の企業が職務記述書を整えただけの「なんちゃってジョブ型」の導入予定なしと回答している点だ。単にジョブ型雇用を導入するのではなく、その本質に応じた制度導入を目指していることが見て取れる。
 では真のジョブ型雇用の実現には、何が必要か。キーワードは「キャリアの自律性」。完全なジョブ型雇用の実現には社内外からの公募する仕組みが不可欠だ。しかしそれは日本企業にとってハードルが高過ぎる。そこで公募ポストを部分導入して、社内公募や社内FA制度を充実させ、「手挙げ文化」の浸透を図ることだ。あるいは社内副業を活用し、社内における「二足のわらじ」の促進から始めてもいいだろう。

職務限定したジョブ型を根幹に

学識者からの提言

知と経験の多様性から価値を創造する

谷口  真美氏

早稲田大学商学学術院
(同大学商学部及び
大学院商学研究科)教授

谷口 真美

 2020年、経済産業省が公表した「人材版伊藤レポート」で、人的資本経営による価値創造のために必要な要素が5つ示された。その一つが「知・経験のダイバーシティー(多様性)&インクルージョン(包摂性)のための取り組み」だ。
 ダイバーシティーとは、ある組織のメンバーの属性に、どの程度のばらつきがあるかを示す尺度であり、表層と深層に大別される。
 表層の多様性とは、外観で判別しやすい、年齢や性別、人種・民族、障害の有無などを指す。深層の多様性とは、その人物をよく知った上で明らかになるもので、価値観や知識、経験などが挙げられる。組織の生産性を上げ、価値創造に結びつくのは深層の多様性だ。
 インクルージョンとは、多様な人材が互いに尊重され、能力を発揮できる状態を指すもので、組織への帰属感と独自性の2軸で表せる。帰属感とは、組織の中で仲間として扱われているという意識や感覚のこと。独自性とは、組織の中で自分の個性を発揮し、組織に貢献しているという意識や感覚のことだ。
 個々のメンバーの帰属感欲求と、独自性欲求が、ともに満たされて「インクルージョン」を実感できたときこそ、多様性によって集団成果を生み出す心理的基盤が「整う」のだ。
 さらに組織的基盤として、多様性に対する組織の取り組み姿勢には、抵抗、同化、多様性尊重、分離、統合の5段階があり、段階に応じて目的も得られる結果も大きく異なる。
 抵抗とは、組織がいまだ多様性を受け入れない段階である。同化とは、法に違反しないように差別を減らす一方、「みな同じ」との考え方から、個々の多様性は認めない段階だ。違いは生産性を下げるものと考え、既存の仕組みを変えない。
 多様性尊重とは、違いを尊重することを目的とし、それをいかすまでには至っていない段階。分離とは、違いを価値づけし、異質同士を混在させずに組織的に「分離」し、違いを新市場開拓に活用する段階である。
 そして統合とは、違いを混在させ、異質同士の相互作用を通じてイノベーションを創造し、競争優位性を得ようとする段階であり、まさにダイバーシティーマネジメントと呼べるものである。統合こそが、真のダイバーシティー&インクルージョンの目指すところだ。
 多様性は両刃の剣だ。個の単純合計が必ずしも集団や組織の成果になるわけではない。例えば、多様な意見を集約するとき、往々にして起きるのが単純二項対立化だ。この対立を勝敗争いにせず、異なる意見を組み合わせ、新たな解決策を導き続けることが重要だ。そうした行動こそが組織のリーダーの役割だろう。

職務限定したジョブ型を根幹に
「人的資本経営」実践の時

先進企業の取り組み

再生の鍵を握る人材戦略

新浪 剛史氏

経済同友会代表幹事/
サントリーホールディングス
代表取締役社長

新浪 剛史

 私が経済財政諮問会議に参画した10年ほど前から、日本経済は常にデフレとの戦いを続けてきた。企業と消費者が共に陥ったデフレマインドが、日本経済を悪循環へと導いた。これから皆が逆のマインドを持ち、物価と賃金が共に上がる〝正の循環〟によって企業や家計に眠る力を解き放てば、日本経済は必ずや復活できる。
 今年、世界情勢がデフレの車輪を食い止め、30年ぶりといわれる高い賃金が実現された。
これは物価と賃金が持続的に上がる経済への転換を図る、千載一遇のチャンスだ。6月にまとめられた政府の骨太方針にも、「国内投資の拡大」「三位一体の労働市場改革」「多様な働き方の実現」などの方策が書き込まれた。政府は企業中心から「人」へのシフトを目指しており、企業は選ぶ側から選ばれる側として対処しなければ退出を余儀なくされる時代に転換した。
 この変化により、個人がキャリアコンサルタントの助言を受けながらキャリアを考え、所属する会社を替えるという意思決定が今以上に一般的になるだろう。雇用条件の透明性を高め、賃金を上げ、人への投資をしなければ人材獲得はできなくなる。経営戦略として自社を魅力的な存在にすることが求められていく。
 人材確保の戦略の要は3つ。「人的資本への積極的な投資・継続的な賃上げ」「キャリアデザイン・リスキリング」「明確な企業理念・パーパス経営」だ。サントリーは社員のエンゲージメントが高いといわれる。しかし慢心せず取り組みを続けないと魅力ある人材が離れる危機感があり、イノベーションや人材育成に力を注いでいる。今は企業が人材戦略を再定義し、未来に必要とされる存在に変わるチャンスでもある。風景が変化する中で、変わる勇気と変える力で挑戦していきたい。

先進企業の取り組み

自主性重んじた仕組み提供

青野 史寛氏

ソフトバンク
専務執行役員 兼 CHRO

青野 史寛

 「人」と「事業」をつなぎ、会社の成長を実現することがソフトバンクの人事のミッションだ。事業環境や事業状況が変化すれば、当然ながら人事の在り方は変化していく。人材に対する今の考え方は「未来価値創造のための人材投資」という位置付けになってきている。
 人材価値最大化に向けた取り組みを2つ紹介したい。まず個人の成長のための取り組みとして、2010年に3つの施策を発表した。経営理念の実現に貢献する人材を育成する「ソフトバンクユニバーシティ」、グループ内の事業創出・人材育成の仕組み「ソフトバンクイノベンチャー」、孫正義の後継者を育成する「ソフトバンクアカデミア」だ。異動のジョブポスティング(社内公募)やフリーエージェント制度も実施。社内外の副業も導入・支援している。各施策に共通するのは、自ら手を挙げた人に機会を提供するという考え方であり、社員の自主性にこだわった仕組みを構築してきたことだ。
 事業を加速させる取り組みも実施している。ソフトバンクではテクノロジーの進化と共に事業形態を変化させてきたが、今のホットなゾーンは生成AI(人工知能)だ。当社には生成AIを成功させるために必要な大規模な計算基盤、豊富な技術者、圧倒的な顧客接点があり、非常に大きなビジネスチャンスだと考えている。これに加えて人材価値を最大化させるために、安全・安心なAI利活用の基盤整備、生成AIの学習機会の提供、ソフトバンクグループ内で開催する生成AI活用コンテストなどを実施している。
 〝手挙げ〟のポリシーと仕組みを連動させて社員の成長能力を最大限に引き出すことが、会社の未来をつくると信じて今後も取り組んでいきたい。

先進企業の取り組み

「人を活かす」経営で価値向上

當麻 隆昭氏

SCSK
代表取締役 執行役員 社長

當麻 隆昭

 SCSKは約1万3000人のITエンジニアを中心にサービスを提供する企業であり、デジタル人材を活用する事業を多角的に展開している。当社にとって人的資本経営は事業経営そのものだ。最大の財産は人だと考え、2011年の合併当初から人的資源を実質上資本と捉えた人的資本経営を推し進めてきた。
 人的資本の経営基盤強化として12年に着手したのが、社員の健康を確保するための働き方改革だ。13年度からは残業削減と有休取得の推進、15年度からは「健康経営の理念」を就業規則に定めるなど長期的に取り組みを進めており、唯一9年連続で健康経営銘柄に選定された。
 産業界は社員の健康増進、健康保険組合の財政の健全化、医療費抑制への貢献の課題に直面。この解決に向け、業界の枠を超えた9社が健康社会の実現を目指して結集し、「健康経営アライアンス」を設立した。当社も代表幹事企業の一社として参画し、働き方改革や健康経営に関する知見・ノウハウを提供している。
 経営理念「夢ある未来を、共に創る」の実現に向け、20年4月に中長期経営計画「グランドデザイン2030」を策定した。共創ITカンパニーの実現には人材力、技術力といった人的資本の価値向上が不可欠と考え、長年取り組んでいる社員の専門能力を認定する専門性認定制度を進化させ、グループ内の技術・専門性を可視化し、社員の成長を促す仕組みを整えるとともに、Well-Being経営や共感経営を推進。社員の成長が会社の成長ドライバーであると認識し、一人ひとりの市場価値を常に最大化することが、総合的企業価値の向上に結びつく。こうした企業文化の醸成が人材投資の価値をさらに高め、「人を活かす」経営につながっていく。

評価・開示の仕組み充実を

最前線からのメッセージ

人材の解像度上げ、対話を促進

佐藤寛之

カオナビ
代表取締役社長 Co-CEO

佐藤 寛之

 カオナビは、人の才能・個性を活かすタレントマネジメントシステムを提供している。当社のテクノロジーを利用すれば、企業は従業員のスキルや評価の履歴、前職などの人材情報を、人事だけではなく、経営者や現場のマネジメント層がスピーディーかつ効果的に活用できる。
 現在は個人が働く企業を選べる時代だ。従業員と会社の関係性の主語は、既に従業員側に移っている。そして働く人の価値観は、出世や有名企業で働くこと以上に、その会社で社会貢献できるかが重視される。それができる企業であれば、テレワークが進んだ今、地方の企業でも優秀な人材を獲得できるチャンスがある。
 終身雇用・年功序列の時代は、従業員の人材情報はMUST、WILL、CANの中のMUST情報の管理が中心だった。現在はCANとWILLに関する情報の管理も重要になる。その人の可能性や、歩むべきキャリア、悩みなどを知り、最適に働きかける必要があるからだ。
 新しい人事制度やシステムの導入は、会社側が本気で働き方改革やコミュニケーションを重視していると従業員に伝えるチャンスでもある。タレントマネジメントの上手な企業は、システムへの経営者のログイン回数が非常に多い。初顔合わせの社員の情報を社長はきちんと見ている。ポイントはテクノロジーの導入や分析ではなく一人ひとりの従業員の個性や才能の解像度を上げ、コミュニケーションに活かす環境を整備することだ。

最前線からのメッセージ

問われる企業の誠実さ

佐々木聡

パーソル総合研究所
上席主任研究員

佐々木 聡

 日本のITサービスの貿易収支は過去2年、ほぼ赤字だ。デジタル分野の人材投資が後手に回り、輸入に頼っている。原因の一つは、損益(PL)重視で人件費を抑制してきた経営者の脳にある。OJT(職場教育)ですら、経済協力開発機構(OECD)先進国平均より日本は低い。
 近年、会社と個人の関係性が大きく変化してきた。フラットかつキャリア自律、つまり自分と会社の成長の一致が重要になった。PL脳から貸借対照(BS)脳へ、研修費用や採用費はコストではなく、投資家資金を使って投資する人的資本経営重視の姿勢が問われ始めた。
 では、求職者は何を重視しているか。優秀人材ほどスキル評価やリテンション、リーダーシップなどを重視。情報源は転職サイトや企業サイトだけでなくSNS、有価証券報告書や統合報告書、サステナビリティー報告書も見ている。
 求職者が人的資本情報の開示で重視するのは、企業の誠実さだ。義務だから出しているだけか、弱い部分を化粧で誤魔化していないか。不十分だが従業員目線で開示し、これから頑張ることを誠実に示しているか。報告書の主語は会社か従業員か。ネガティブ情報もあえて開示し、健全化努力をしているか。誠実な開示かどうかは、採用力を大きく左右するようになるだろう。
 人的資本経営の開示はこれからだが、日本企業が世界に誇れる健全な人材投資、人的資本ができていると誇れる状況をつくっていければと思う。

最前線からのメッセージ

大手企業に学ぶ人材データ活用

鈴村賢治

プラスアルファ・
コンサルティング
取締役副社長

鈴村 賢治

 当社は企業のビッグデータの活用、分析を支援する会社で、主にマーケティングデータの活用に強みがある。現在、タレントパレットというHR業界初のマーケティング思考を取り入れたシステムで大企業を中心にサポートしている。
 タレントパレットの使われ方は大別して2つ。一つは人事異動や人材育成など、社員のパフォーマンスを最大化する活用法だ。もう一つは、経営の未来像から逆算して適材適所を実現する、ポジションマネジメントや次世代人材育成などでの活用だ。
 大手自動車部品メーカーではソフトウエア技術者を育成するプラットフォームとして、大手食品メーカーではグループ各社で異なる人事制度とグループ横断での人材活用の二軸を回すプラットフォームとして使っている。20カ国語対応のため、グローバルに使える。
 最近では人的資本の開示対応として、既存データのグラフ化ができる人的資本クイックボードを追加した。ISO30414認証機関の公式パートナーとして、当社では人的資本の開示の仕方や指標類のコンサルティングも行っている。
 また、社員が自分の習熟度、スキル、評価、受講すべき研修を一覧できるダッシュボードも追加した。社内研修に加え、外部研修コンテンツも集約可能だ。メルマガが個人の嗜好に合わせると反応が高くなるように、マスになりがちな人事施策でも個人に合わせた研修を紹介することで教育効果が上がる。

最前線からのメッセージ

優良企業選別のメカニズム

保坂駿介

HCプロデュース
代表取締役

保坂 駿介

 人的資本の情報開示が国内外で進む中、国際標準化機構(ISO)が定めたシステムマネジメント規格、ISO30414に注目が集まっている。
 同規格は人事領域の情報開示ガイドラインであり、「倫理とコンプライアンス」「コスト」「ダイバーシティー」といった11項目と、その下位の58指標からなる。指標にはそれぞれに算出法があり、利用者が人事データを入力することで、指標の値を導くことができる。
 ISO30414による開示のメリットは多岐にわたる。投資家が投資先企業の成長の判断材料とするのはもちろんだが、経営者も自社の人的資本投資の客観的な度合いがわかれば、より的確な経営判断をくだせる。
 人事担当社員にとっても、取り組みの効果の可視化で、モチベーションが上がるし、次の目標の設定もしやすい。また、企業ごとの人的資本投資の金額・分野の比較は、求職者にとっても有用だろう。
 日本企業のISO30414利用には課題もある。同規格は欧米の雇用慣行を前提に作られており、日本企業が用いる場合、指標を日本型に解釈し直す必要がある。また、社員満足度調査など、元データ取得の仕組みが未整備な企業も日本には多い。
 ISO30414は、人に投資し、成長していく優良な会社が、社会の中で選別されていくメカニズムである。このメカニズムが適切に機能し、日本社会全体がよりよく変化していくことを願っている。

最前線からのメッセージ

取引先を含めた人権尊重

櫻井洋介

三菱UFJリサーチ&コンサルティング
サステナビリティ戦略部シニアマネージャー

櫻井 洋介

 2011年、国連人権理事会が「ビジネスと人権に関する指導原則」を策定。企業に対して、サプライチェーン(供給網)を含めた事業活動全体での人権尊重の経営を求めている。
 例えば、自社が原因の人権侵害でなくても、取引やサービスを通じて人権侵害とつながる場合、企業は責任を負う。よって企業は、人権リスクの把握や防止、軽減を行う「人権デューデリジェンス」に取り組まなければならない。
 人権尊重も人的資本もともに人に関係する課題であり、両者に共通点は多い。しかし目的や対象範囲は異なる。例えば人的資本経営は企業の視点から人材を資本と捉え、企業の持続的成長を狙う。一方人権尊重の経営は、弱い立場に置かれた人々に対して、人権侵害リスクの最小化を図る。投資家や労働者へ情報を開示し、エンゲージメント(対話)を通じて施策改善を図る手法は共通だ。そして全ての土台となるのが基本的人権であり、人間としての尊厳である。
 これらを踏まえ、企業は人的資本経営の実践時、ステップごとに人権視点を組み入れていくべきだ。例えば、新卒採用戦略の見直しや人材の再配置の過程でも、基本的人権の尊重や非差別の原則を意識する。
 現在、人的資本の取り組みが活発化するが、労働者は資本である以前に個人として尊重される存在である。指標の選定や情報開示に固執するのではなく、基本的人権の視点から人的資本経営を問い直してほしい。

人材は価値創出の源

パネルディスカッション

立教大学 21世紀社会デザイン研究科 特任教授/
不二製油グループ本社 ESGアドバイザー

河口 眞理子

日本サステナブル投資フォーラム (JSIF) 会長

荒井 勝

SCSK 執行役員 人事・総務本部 分掌役員補佐
(D&I・Well-Being推進担当)

河辺 恵理

パーソル総合研究所 上席主任研究員

佐々木 聡

コーディネーター

日本経済新聞社 編集委員

石塚 由紀夫

成長のドライバーは社員

――人的資本経営を企業価値向上に結び付けるため、SCSKではどのような取り組みを推進してきたか。

――人的資本経営を企業価値向上に結び付けるため、SCSKではどのような取り組みを推進してきたか。

河辺:当社の最大の財産は人であり、社員の成長が会社の成長ドライバーと認識し、10年以上にわたり様々な施策に取り組んできた。
 人的資本の「基盤整備」として、2013年、まだIT業界がブラックな業界といわれていた頃から、働き方改革「スマートワーク・チャレンジ」をスタートした。フレックスタイム制や裁量労働制の適用拡大、勤務状況データの可視化、目標達成時の組織インセンティブの導入などを推進し、約3年で平均残業時間は20時間を下回り、有休取得率は90%以上となった。「経営トップが本気で取り組む」「組織マネジメントでの推進」「主体は社員一人ひとり」「社員が主体的に取り組む工夫やしかけ」により全社一丸となって取り組んだ結果、新しい働き方へのシフトに成功した。
 15年からは健康経営、そして現在はWell-Being経営に取り組んでいる。
 人的資本の「基盤強化」にも並行して取り組んでいる。ビジネス環境の変化に応じて事業戦略と人材戦略を連動しながら、社員の人材価値の最大化を図ることが目的だ。
 11年から専門性認定制度を推進。19職種、7段階のレベル認定を実施している。「SCSK i-University」ではITの専門性だけでなく、キャリア開発、リーダーシップ開発など多岐にわたって育成を図っている。自己研さんを奨励する「コツ活」、自律的なキャリア開発を促す人材公募制度や社内FA制度などもある。
 このような人的資本経営の取り組み状況は全て可視化し、業績と同様に開示してきた。投資家だけでなく顧客・家族・社会に知ってもらいたいと考えている。

河辺  恵理氏

河辺 恵理

投資家は非財務情報注視

――投資家は人的資本経営をどうとらえているのか。

荒井  勝氏

荒井 勝

――投資家は人的資本経営をどうとらえているのか。

荒井:ESG(環境・社会・企業統治)投資をけん引する国連の「責任投資原則(PRI)」に、世界で5391の金融機関が、日本からも126機関が署名している(23年8月現在)。その資産合計は1京7710兆円という莫大な金額だ。
 日本のサステナブル投資残高も、22年度に493兆円とプライム市場の6割強に達している(日本サステナブル投資フォーラム調べ)。既に投資の主流はESG投資になっている。公募のESG投信残高も昨年12月には4兆円弱となり、個人投資家の関心も高まっている。
 こうした状況の下、1980年代から企業活動の成果を生み出す無形資産が注目を浴びるようになった。米国のS&P500において、1975年は財務情報が投資家の判断の80%を占めていたのが、2015年には非財務情報が87%を占めるまでになった。また投資家の判断に対する年次報告書や四半期報告書の貢献度は5、6%程度という報告もある。こうした動きと連動するように、人的資本の開示に関する基準や枠組みが策定され、その義務化が進んでいる。

――企業側の人事部門ではどんな対応を取っているか。

佐々木:経営戦略と人事戦略の連動、人材ポートフォリオの作成はまだ右往左往している状況だ。SCSKのような先進的な取り組みができている企業は一握り。
 人材ポートフォリオ作成において、大切なポイントが3つある。まず人事部門における経営戦略の理解促進。次に経営戦略における人事施策の位置付けの明確化。最後が経営戦略と人材戦略の時間軸のすり合わせだ。投資家による人事施策に対する関心の高まりを認識し、積極的に取り組む姿勢が求められている。

佐々木  聡氏

佐々木 聡

観点を企業人から生活者へ

――サステナブル経営で求められることは何か。その実現に必要な人材とは。

河口  眞理子氏

河口 眞理子

――サステナブル経営で求められることは何か。その実現に必要な人材とは。

河口:これまで企業はバリューチェーンを通じて、お金でつながるステークホルダー以外は企業活動上に存在しないとしてきた。社会的価値は企業価値の対象外だった。しかし気候変動に生物多様性も加えた地球環境問題が企業のサステナビリティー(持続可能性)に大きな影響を与える現在、お金のつながりのないステークホルダーのニーズを含め、全てのステークホルダーを通じて社会インパクトを生み出していくことが不可欠となった。社会的インパクトが企業価値として評価されるステークホルダー資本主義の時代に入っている。実際ESG投資の最先端といわれるインパクト投資では、社会インパクトを企業価値として評価する試みが始まっている。
 ステークホルダー資本主義に求められる人材の要件は、先の見通せない世の中において、既存の枠組みを超えて全体を俯瞰(ふかん)し、今何が課題なのか、なぜそれが問題なのか、将来の課題はなど、自分の頭で察知し、言語化して考え抜く力だ。人間社会は自然の恵みによってのみ存在可能であり、その多くは未知であることを理解して課題に向き合う姿勢も欠かせない。その上で企業人から生活者へと観点を変えることができる人材が必要である。今日の利益だけでなく、5年後、10年後の利益の可能性を追求できる風土づくり、従業員一人ひとりの幸せ・自己実現を応援する風土と体制の構築が人的資本経営の推進に欠かせない。

――企業価値向上に人的資本経営をつなげるために必要なこととは。

荒井:なぜやるのかを明確化すること。目的がはっきりすれば、環境が変わっても継続して取り組むことができる。

河辺:経営と社員が一体感を持って、向かう方向を理解し、先を見据えて共に活動していくことが重要だ。

佐々木:日本は天然資源の少ない状況の中で高度成長を遂げてきた国。そこで培った知恵やノウハウを思い出し、日本企業だからこその構想力を発揮できれば、成長につなげていけるはずだ。

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