「心がせかせか」「勝手に迷走中」「煮詰まってきたな」。そんなふうに自覚したら、大人向けの本をしばし脇において、こどもの本を開きます。読めない文字はないし、意味を調べないとわからない言葉も出てきません。すいすい読める。けれど、心が閉じていたり、こわばっていると、その本が発するメッセージをキャッチすることはできません。目や頭で読むというよりも、“心で読む”という意識でページをめくると、こどもの本はベターアンサーの宝庫、思考スイッチの泉です。今回は、“心をほぐす”作用たっぷりの1冊をご紹介します。

vol.3 『海のむこうで』

海のむこうへ赴く、という当たり前だったことができなくなって、しばらく経ちます。飛行機や船に乗ってしまえば、どこへでも自由に海のむこうへ行けた日々が、今や懐かしい。新たな発見や人との出会い、気分転換をもたらすのも、いわゆる“海外旅行”の楽しみのひとつですが、「世界は広い そして、地球はつながっているんだ」と感じることができることこそ、海を渡る醍醐味ではないかと思う今日この頃です。今回ご紹介するのは、海のむこうの5つの物語を束ねた、伝説の絵本作家、M.B.ゴフスタインによる『海のむこうで』です。

木の塊を彫って小さなお人形を作ってくれたおじいさんのお話。新しい帽子をかぶった小さなリスとおさんぽをするお話。気持ちのいい草原でピクニックをするお話。木で出来たサボにブーケを乗せて海に流すお話。そして、コーンをひく丘の上の風車と鳥のお話。この5つの物語には、緩急激しい起承転結や興奮するようなドラマティックな展開はありません。ひたすら穏やかで、あたたかく、まるで海の上をぷかぷかと流れにまかせて浮いているような、閉じたまぶたに太陽のぬくもりを感じているような、そんな気持ちよさが心を包みこみます。

『ソフィーのピクニック』で、ソフィーは、くさび形のチーズやソーセージ、パン、梨、チョコレートなどを用意して、ひとりピクニックへ出かけます。水が入った瓶にレタスの葉を一枚入れて持っていくのですが、そのアイディアに「へえぇ〜」とちょっと驚き。同じことを試したくなってしまいます。そして、靴箱で眠っているサボを引っ張り出して、からん ころん、と歩きたくなります。

この本は、1968年にアメリカで出版され、ニューヨーク・タイムズの「最優秀児童図書賞」を受賞しましたが、日本では長らく未訳であったため幻の傑作といわれてきました。そして、今年6月、約50年の歳月を経て、待望の日本語版が刊行されたのです。それも、日本語版(生成りのクロス貼りの本)とオリジナルの英語版(赤い本)、そしてゴフスタインのお母さんによる直筆の手紙のレプリカが、ブルーのクロス貼りの美しい特製ボックスに入ってお目見えしました。翻訳を手がけるのは女優の石田ゆり子さん、と聞いて胸が高鳴りました。というのも、石田さんが綴る文章のやさしさや心地よさが、ゴフスタインの生み出す慎ましやかな世界観にぴったりだからです。

ゴフスタインのペンとインクによる線画は、実にシンプルです。余計な背景や状況は描かれていません。言葉は、一語一語丹念に紡がれ、説明し過ぎることなく飾りもありません。ただ、そこには、ひたむきさや素直さ、小さき大切なものがぎゅっと詰まっています。それは、時代や国境、大人やこどもといった年齢を優に超える、人間にとって本質的なものです。猛スピードで過ぎ去る流行や、つめ込み過ぎの情報に翻弄されがちな現代だからこそ、ゴフスタインのメッセージは、より一層、きらきらと光を放ちます。丁寧に作られたこの本のページをめくるたび、海を渡らずとも、小さな波に乗って運ばれてきた“あたたかいもの”を受け取ったような気分になり、心がじんわりほぐれます。そして、それに気づけた自分が、ちょっと嬉しくなるような1冊です。

『海のむこうで』
作/M.B.ゴフスタイン 訳/石田ゆり子 刊/トンカチ

M.B.ゴフスタインは、1940年、アメリカ・ミネソタ州のセントポール生まれ。地元の高校を卒業後、バーモント州のベニントン大学へ進学し、文学と芸術を学び、大学を卒業してニューヨークへ行きイラストレーターを目指す。1966年に『あの子たち!』で絵本作家としてデビュー。『ブルッキーのひつじ』『ゴールディのお人形』など名作多数。2017年に77歳で逝去。こどものみならず、大人のゴフスタイン・ファンやコレクターも多い。

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Photos: ASA SATO Text: maikohamano_editforbookbar