SPIRE

5人の現代美術アーティストの作品世界

2021.10.8

明らかにコロナで劇的に変化した私たちの日常だが、アーティストたちはどのように反応や応答を発しているのだろう。世の中を揺るがすような出来事や現象に対する美術作家のリアクションは、音楽や文芸など他の分野よりも、時間をかけてじっくりと練り込まれ、検証されてから現れる傾向がある。

一方で、既存の仕組みや規範、常識といったものを疑うことから芸術表現が発想されるとするなら、彼らはコロナ以前の世界も「揺るぎない」ものと捉えてはいなかったはずだ。国内のアートシーンで昨今注目する5人の作家の活動を例に挙げ、私たちを取り巻く世界の見方のヒントを探ってみたい。

玉山拓郎

玉山拓郎 個展「Anything will slip off / If cut diagonally」展示風景, ANOMALY、東京、2021 撮影:大町晃平

玉山拓郎(1990年生まれ)は、私たちの生活や生存を支える安定した状況を問いただすかのような、鮮烈な絵画的空間を展開する新進気鋭のアーティストだ。今夏開催された初の大規模な個展「Anything will slip off / If cut diagonally」(斜めに切れば/何もかも滑り落ちる)は、ネット上で試験的に空間構成したプラン「When I was born when I was born」とパラレルに進行し、バーチャル展示は現在も観ることができる(終了日時未定)。

玉山拓郎 個展「Anything will slip off / If cut diagonally」展示風景, ANOMALY、東京、2021 撮影:大町晃平

鮮やかな色の光に包まれたこの空間では、皿からパスタが滑り落ち、壁からフロアランプが垂れ下がり、グラスの水は傾いたまま膠着する。すべては現実世界のものでありながら、極めてアナログな手法のささやかな介入により「重力」をすり替えることで、SF映画のセットのような白日夢と日常との力学的な差異が増復され、「ほかの誰とも確かには共有することのできない」私たちの知覚のありようを揺さぶってくる。

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梅沢和木

梅沢和木《画像の粒子 -Twelve Style》2021 ©Kazuki UMEZAWA Photo by Shintaro Yamanaka (Qsyum!)

梅沢和木(1985年生まれ)は、インターネット上に拡散する無数の画像を収集し、カオス的な絵画の画面に再構築することにより、その圧倒的な情報量に対峙する感覚を表現する。膨大な画像素材をコラージュした画面をプリントし、さらにその上からアクリル絵の具などでペインティングを加えていく。

2011年の東日本大震災後以降、震災によって変容した現実の風景を作品のなかに織り込む試みを開始。2021年からはリコーによるアートプロジェクト「StareReap(ステアリープ)」とのコラボレーションにより、デジタルノイズなどのテクスチャーを立体的に表現した作品に着手している。

《すべてを死るのも》2018, Courtesy of CASHI

アニメのキャラクターやファンタジーの世界観を題材とするアーティストは多数いるが、梅沢は「余白恐怖症」を自称するほど隙間なく筆触を加える独自の手法で、二次元世界に同化しようと試みる。ネット世界と自身の意識を接続することが常態化した彼は、人間の意識が死後消失することが何よりも恐ろしい、という。

意識によるコントロールを離れたVoid(無効な空間)の存在を許さない創作姿勢には、超過密都市の異常なテンションを画面上で操作しようと挑む、真摯に覚醒したまなざしを感じる。さらに「無」への恐怖にブーストされたイメージの洪水は次元と焦点を撹乱(かくらん)し、私たちの時間感覚を奪い去るのだ。

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ミヤケマイ

ミヤケマイ《One for All, All for One 知足》撮影 : 鍋島徳恭

ミヤケマイは、日本独自の美意識をテクノロジーや工芸的手法によってタイムレスにつなぎ、物事の本質を問い続ける。2008年のパリ留学以降、より自由奔放に表現領域を広げた彼女は、骨董、工芸、美術、デザイン、プロダクト、小説、と媒体やジャンルの境界を越えてまさに天衣無縫に活動してきた。コロナ禍さえその馬力を止めることはなく、〈盆栽〉とのコラボレーション、柿傳ギャラリーでの茶室の表具への新たなアプローチ、そしてこの年末は神奈川県民ホールギャラリーで書家・華雪との二人展「ことばのかたち かたちのことば」が予定される。

さいたま国際芸術祭2020 ミヤケマイ「蝴蝶之夢」より展示風景

さいたま国際芸術祭(2020年)で発表した、元区役所の区長室、会議室、健康相談室、医務室など複数の空間を貫くように展開したインスタレーションは心に残った。かつての「外国人生活相談室」の掲示物からスタートする作品群には、蝶の標本や押し花、水栽培の球根や薬瓶、ガラス玉といった端正なモチーフが取り入れられ、私たち人間を含む動植物の命の儚(はかな)さ、不安定な立場にある移民や女性の就労問題、現代社会における居場所や所属の問題について暗喩的に問いかける。壮子の説話から引用されたタイトル「蝴蝶之夢」のとおり、人間社会に生きづらさを感じ、羽ばたく蝶のように自由に生きたいと夢見る人々の声なき声が充満するようだった。

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荒木悠

「The Last Ball」2019年 映像インスタレーション 資生堂ギャラリーでの展示風景 撮影:加藤 健 製作:株式会社 資生堂

荒木悠(1985年生まれ)は、幼少期から11年に及ぶ期間を米国で過ごした、いわゆるサードカルチャーキッズだ。かつて副業の通訳や翻訳を挫折した経験からも(※これは本人の謙遜。彼の通訳は見事だ)、創作の関心はおのずと「文化の伝播と誤訳」に向かった。

近年の代表作では、日本と欧米諸国の文化交流の歴史を丹念に調査し、虚実入り組んだ物語やドキュメンタリーを再編。異国や異文化を理解する際に生じる幻想や“ずれ”を、素っ頓狂な曲解ととぼけたユーモアに満ちた表現で提示する映像インスタレーションを展開してきた。

展覧会にとどまらず、2018年のロッテルダム国際映画祭ではTiger Awardを受賞し、国際的に注目される。またこの秋には、京都府広域で開催される芸術祭「ALTERNATIVE KYOTO」にて、南丹市八木町でのリサーチから着想を得た新作を展示する。

「密月旅行 HONEYMOON」2020年 映像インスタレーション ポーラ美術館での展示風景 撮影:加藤健 製作:公益財団法人ポーラ美術振興財団 ポーラ美術館

いま世界で現実に起こっている出来事と社会を変革に導こうとする大きなうねりに帯同し、メディアリテラシーはもとより、現代美術の潮流も同じくソーシャル・エンゲージメントとポリティカル・コレクトネスに強く引き寄せられている。

一方で、荒木の立ち位置の自由度は、異国間・異文化間に横たわる〈正しさ〉をあくまでオフビートで脱力的な手つきで取り扱う、その跳躍と転換のセンスにある。一筋縄ではどうにも拠りあわせることが困難な実社会の矛盾を、伝承や物語にねじれやレイヤーを作り込むことでするりと解きほぐす独自の手法は「芸術に許された余白の領域」(荒木)であり、作家の誠実の表れでもある。

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宮永愛子

夜に降る景色 -時計- 2010 ナフタリン、ミクストメディア 写真:宮島径 © MIYANAGA Aiko Courtesy of Mizuma Art Gallery

宮永愛子(1974年生まれ)は、日用品をナフタリンでかたどったオブジェや、塩、葉脈、陶器の貫入音を使ったインスタレーションなどで知られ、国内外で高く評価される作家だ。いずれのシリーズも移ろいやすく繊細な素材を扱い、それらが残していく気配の痕跡によって詩的に視覚化された「時」と「記憶」が通奏低音のように響く。

宮永の作品性については、ナフタリンの彫刻に象徴されるように「儚(はかな)さ」や「無常」という言葉で語られることが定説だった。昨今ますます市場価値偏重が進むアートシーンの新興コレクターたちによれば、形を残さず消えていく(ように見える)作品を高額でコレクションすることは「勇敢な」武勇伝と映るらしい。

ひかりのことづけ(部分) 2021 ガラス、空気 写真:木奥恵三 「東京ビエンナーレ2020/2021」展示風景、湯島聖堂 前庭  © MIYANAGA Aiko Courtesy of Mizuma Art Gallery

一方、筆者は近年個人的な状況や心境の変化に伴うものか、宮永の作品にこれまでと少し違った対峙の仕方をするようになった。さらにパンデミックにより内省的に過ごさざるを得なくなったいま、作品が持つ弾力性に富んだ強靭さを受けとめる心映えが確固としたものとなった気がしている。昇華し変容するナフタリンの結晶、川や海の水に含まれる塩、聖堂の前庭に置かれたガラスの滴。宮永が移ろいゆく物質のなかに人の生活や移動にも似た変成を見出したように、彼女の作品世界には向き合う者の精神の変成を映し出すところがあるのかもしれない。

いまこの取捨選択の時代にあって、芸術を不要不急のものとして選ぶ理由はそんな作品との出合いにこそある。

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Text: Chie Sumiyoshi Editor: Kaori Shimura