あの女性監督の新境地。『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

立田敦子の「話題の映画を原作で深掘り!」vol.4

2021.11.26

Netflix映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』
Netflix映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

男社会におけるマッチョイズムの闇を
女性監督がひも解く

ジェーン・カンピオンの12年ぶりの長編『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は、とてつもなくパワフルな映画だ。本作は、今年(2021年)の第78回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門に選出され、監督賞(銀獅子賞)を受賞したが、個人的には最高賞の金獅子賞に値するほどの傑作だと思う。英国のロマン主義の詩人ジョン・キーツの伝記映画『ブライト・スター いちばん美しい恋の詩』(09年)後、脚本・監督・製作総指揮を務めていたテレビシリーズ『トップ・オブ・ザ・レイク』に集中していたカンピオンが、スクリーンに戻ってくるきっかけとなったのが、継母から勧められたトーマス・サヴェージの小説『パワー・オブ・ザ・ドッグ』だった。

小説『パワー・オブ・ザ・ドッグ』
小説『パワー・オブ・ザ・ドッグ』 トーマス・サヴェージ著 波多野理彩子訳 KADOKAWA刊 ¥968

舞台は、1920年代のモンタナ州の町から離れた牧場である。農場主は、フィルとジョージというバーバンク兄弟。東部の名家だったバーバンク家だが、兄弟の父親はモンタナで農場を起こして成功、現在は農場経営を息子たちに譲り、都会で妻とともに悠々自適な暮らしをしている。
 兄のフィルは大学を優秀な成績で卒業し、音楽や美術にも精通する教養の持ち主だが、一流のカウボーイでもある。なんといっても小説の冒頭は、こんな一節から始まる。「去勢をするのはいつもフィルだった。まず陰嚢の底を切って横に投げる。次に、いっぽうの睾丸を引っ張り出し、もういっぽうの睾丸も引っ張り出すと、それらを包む虹色の膜に切れ目を入れて引きちぎってから、焼印用のこてが赤く光っている火の中に放り込む。出血量は驚くほど少ない」
 フィルはこんな作業もいとも簡単にやってのけるだけでなく、通常は手袋をはめて行う作業も素手で行う。「彼は水ぶくれも切り傷もとげも気にしなかったし、手袋で手を守ろうとする者を軽蔑していた」というから、相当なツワモノであることは間違いない。

Netflix映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』
Netflix映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

一方、弟のジョージは大学も成績不振で退学させられるなど精細を欠き、地味な性格であると描写されている。それだけキャラクターが違えど、兄弟仲は悪くなく、両親が使用人とともに去った後の大きな屋敷で、今でも子どもの頃のようにひとつの寝室でベッドを並べて寝ている。
 そんな彼らに変化が起こったのは、ジョージの突然の再婚によってだった。市場に向かう途中で立ち寄ったレストラン「レッド・ミル」で女主人ローズを見初めたジョージは、フィルに相談することなく結婚し、農場に迎えた。数年前に医師だった夫が自殺したローズは、一人息子のピーターを大学の寮に送り込み、フィルと夫ジョージとともに新しい生活を始めるが、ローズを歓迎しないフィルの執拗な嫌がらせにジリジリと精神的に追い詰められていく。そして、夏の休暇でピーターが牧場を訪れると、フィルはピーターに急接近する――。

Netflix映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』
Netflix映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

平穏な兄弟の“城”に割り込んできた新参者のローズとフィルの対立を軸に、農場の人間模様が描かれるが、なんといってもフィルという人間の強烈な個性が、このある種ミステリーともいえる小説の牽引(けんいん)力だ。人を魅了するカリスマ性を持ち合わせている半面、残酷な仕打ちも厭わないフィルは、ある種、男性性の象徴でもある。つまり、この物語はフィルという「有害な男性性(Toxic Masuculinity)」を巡る悲劇的な物語ともいえる。「有害な男性性」とは、男たるものは強くあらねばならないなどの固定概念であり、近年、男社会ではこれらのプレッシャーから女性蔑視や同性愛嫌悪をはじめとする多様性への不寛容や感情を表現できないなどの問題が起こり得ると指摘されている。
 フィルはまさに「男であること」にがんじがらめになっている人物であるが、その彼を「粗野で繊細さに欠ける無教養な男」というステレオタイプとして描くことはせずに、知性も教養もあり、芸術も解する彼の内面に踏み込んでいるところにこの物語の深さがある。また、フィルは伝説のカウボーイ、ブロンコ・ヘイリーを敬愛し、ある種のロールモデルとしているが、そうした同性間の性的な緊張感は、物語の後半のフィルとピーターの間にも存在する。
 ピーターは医師を目指す大学生で、線が細く、中性的だと描写されていて、フィルや彼の仲間のカウボーイたちからもからかいの対象になっている。当初はピーターにつらく当たっていたフィルが、ピーターを取り込むことでさらにローズに圧をかけようとするのだが、ピーターは単に弱い人間かというとそうではない。医学を志す者でもあるから、傷ついた野ウサギの首を捻って瞬殺してしまう度胸もある。学びのために部屋でウサギを解剖しているところを見たメイドがピーターを気味悪がる描写もあり、感情に流されない冷静さも持ち合わせていると思われる。一方、非の打ちどころがなく、屈強に見えるフィルはどうなのか?

Netflix映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』
Netflix映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

トーマス・サヴェージが『パワー・オブ・ザ・ドッグ』を出版したのは、1967年である。1915年にユタ州のソルトレークシティで生まれた彼は、5歳から母の再婚相手の家が営むモンタナ州ビーバーヘッドの牧場で育った。アルコール依存の母親のことなど、この小説は自伝的な要素が強いとされているが、フィルのモデルは継父の兄だという。
 驚くべきは、1960年代に書かれた1920年代の物語にもかかわらず、この物語で描かれるジェンダー差別や階級闘争、ダイバーシティといったテーマが、今まさにトピックスとなっている点である。『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は出版当時は商業的には成功せず、米国でも一時絶版となっていたが、2001年に再刊された。その際にあとがきを執筆したのが、映画化された短編小説「ブロークバック・マウンテン」の著者E・アニー・プルーであるという。ジェーン・カンピオン監督は映画化にあたり、プルーに会い、「米国西部史を女性作家の視点から描くこと」について語り合ったとか。米国において、あるいは現代の男性社会において、「男らしさとはいったい何であるのか」をこの物語は雄弁にひも解いてみせる。
 2017年にハリウッドを起点に始まった#MeToo運動は、映画界だけでなく世界全体で大きなうねりを見せ、社会に深く根を張るジェンダー問題の顕在化が急速に進みつつある。1993年に『ピアノ・レッスン』で、カンヌ国際映画祭で女性監督として史上初のパルム・ドール(最高賞)を受賞したカンピオンが、半世紀前に書かれたこの物語から核心をつかみ出し、スクリーンに広げて見せたことは感慨深い。
 タイトルの「パワー・オブ・ザ・ドッグ」とは、旧約聖書の詩編22章20節からの引用である。「わたしの魂を剣から、わたしの愛を犬の力から、解き放ってください」。
 きわめて斬新にして見事なラストによって、この言葉の意味は解き明かされるので、ここでは無粋な解説はしないでおこう。

Netflix映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

12月1日(水)より独占配信開始
監督:ジェーン・カンピオン
出演:ベネディクト・カンバーバッチ、キルスティン・ダンスト、ジェシー・プレモンス、コディ・スミット=マクフィーほか

Text: Atsuko Tatsuta
Editor: Kaori Shimura

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