「思考が内側に向いているな」「空想力が低下気味」そんなふうに思ったら、大人向けの本をしばし脇において、こどもの本を開きます。読めない文字はないし、意味を調べないとわからない言葉もでてきません。しかし、心が閉じていたり、こわばっていると、大事なメッセージをキャッチできません。目や頭で読むというより、“心で読む”という意識でページをめくると、こどもの本はベターアンサーの宝庫であり、思考スイッチの泉です。今回は、“心躍る”作用たっぷりの1冊をご紹介します。

Vol.9 『旅の絵本 X』

こどもの頃、目にしていたけれど、大人になってから改めて手に取り、その素晴らしさに心奪われる。そんな絵本がいくつかあります。安野光雅さんの『旅の絵本』シリーズが、まさにそうです。1977年から2018年という約40年にわたって計9冊が発刊された、安野さんの代表作のうちのひとつです。惜しくも2020年に94歳で亡くなられ、9冊目のスイス編で終わりなんだ……と寂しく思っていたところ、なんと逝去後にオランダ編の原画がアトリエで見つかり、このたびシリーズ完結編として発刊されました。それが、今回ご紹介する『旅の絵本 X』です。

大のロングセラーなのでご存知の方も多いかと思いますが、『旅の絵本』はひとりの旅人が世界中を旅する様子が描かれた文字のない絵本です。海があり、川があり、橋があり、田園があり、集落があり、教会があり、市場があり、森があり、また海へ。風景画のなかには、人々の暮らしぶりをはじめ、イギリス編ならばピーター・ラビット、イタリア編ならばピノキオ、といったその地にゆかりのあるモチーフの数々が、細密画のごとく丹念に描き込まれています。また、巻末には安野さんによる解説文があるのですが、実にユーモアにあふれていて、なおかつ「へぇ〜」とちょっと賢くなった気分になる生きた雑学が満載。この本をより深く楽しむことができるヒントやエピソードが散りばめられています。

オランダのアムステルダムには、咲いたばかりの花を売る花屋さんがずらりと並ぶ通りがあるそうで、その風景が描かれたページ。柔らかく優しい淡彩が春気分へと誘います。地名の詳細は残っていませんが、前のページがキューケンホフ公園なのでその近辺かな?などと想像を膨らませながら、青い頭巾と衣服をまとった馬に乗る旅人を目で追います。

オランダ編の解説では、ゴッホ、エッシャー、フェルメール、ホッベマ、アンネ・フランクなど興味深い名前が、地名と共に出てきます。絵を見てこれがそうだ、と断言できるものもあれば、一見してわからないものもあります。しかし、これは、答え合わせ本ではありません。そこが素敵なところです。種明かしや謎解きありきではなく、あくまで目と心で純粋に楽しむのが優先。それから、解説を読んで、もう一回、と何度も味わえる旅の本なのです。リアルな旅が叶わない今、地名さえ判れば即写真検索ができ、ドローン映像で世界中どこへでも行った気になれるバーチャル旅も可能な現代です。しかし、同じバーチャルならば、絵本のページをめくりながらの空想旅の方が味わい深く、パンデミック前に比べると、よりいっそう豊かな読後感をもたらしてくれるような気がします。

食卓から見える位置に『赤毛のアン』の挿絵「夕日」を飾り、ベッドサイドに『小さな家のローラ』の挿絵「大きな森の小さな家」を置き、書棚には『空想工房』の表紙面を向けて置いています。無意識だったのですが、いつでも安野さんの絵が目に入ってくるようにしている自分に気づきました。眺めていると、心が穏やかになり、それでいて知的好奇心が刺激され、冒険心に弾みがつく。私にとっては精神安定剤であり、カンフル剤でもある、心のお守りなのかもしれません。そして、“生きているということは、旅をしていることのようだ。”という安野さんからのメッセージをのせたこの一冊が、静かに心躍らせるお守りの仲間入りをしたのはいうまでもありません。

『旅の絵本 X』 作/安野光雅 刊/福音館書店

安野光雅氏は1926年、島根県津和野町生まれ。1968年に『ふしぎなえ』で絵本作家としてデビュー。多岐のジャンルにわたる多くの著作を残し、また画家や装幀家としても活躍。2020年に逝去。シリーズ完結編である『旅の絵本 X』の発売とともに、今まで安野さんが訪れた中部ヨーロッパ、イタリア、イギリス、アメリカ、スペイン、デンマーク、中国、日本、スイス、オランダが描かれた同シリーズの計10冊を美装ケースに収めたセットも発売に。(¥15,620)

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Photos: ASA SATO Text: maikohamano_editforbookbar