Culture

映画『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』

立田敦子の「話題の映画を原作で深掘り!」

2022.6.17

©Hanno Lentz/Lupa film

1930年のモラリストと現在をつなぐもの

ドミニク・グラフの『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』は、エーリヒ・ケストナーが1931年に書いた長編小説『ファビアン あるモラリストの物語』の映画化だ。

舞台は1930年、第1次世界大戦後のワイマール共和国時代の末期のベルリン。32歳のファビアンは夜遊びに興じているなかで、女優の卵のコルネリアと出会う。やがて仕事を失い、コルネリアは映画女優として成功するために、映画会社のボスと寝て、唯一の親友ラブーテは破滅していく。都会に出てきた作家志望の青年ファビアンのとりとめもない日常をつづるだけでなく、当時の街、文化、空気感を生き生きと描き出し、とても魅力的だ。

日本でみすず書房から出版されている単行本には、著者による二つの〈まえがき〉がついてる。第2次世界大戦の1年後の1946年に書かれたものと、1950年に書かれたものだが、興味深いことにケストナーは、どちらにおいても、本書は人々にきちんと「理解されていない」と書いている。

小説『ファビアン あるモラリストの物語』 エーリヒ・ケストナー著 丘沢静也訳 ¥3,960 みすず書房

(以下、まえがきより引用)

だから今日では当時よりももっと理解されないだろうが、『ファビアン』は「不道徳な」本などではなく、明らかに道徳的な本なのだ。

(中略)当時の大都市の状態を描いている本書は、詩や写真のアルバムではなく、風刺なのだ。あったことをそのまま記述せず、誇張している。モラリストたる者、自分の時代につきつけるのは、鏡ではなく、ゆがんだ鏡。カリカチュアは、芸術の正当な手段であり、モラリストのなしうる究極のものである。それすら役に立たないのなら、もうどんな役にも立たない。どんなことでもモラリストが失望するようなことがあれば、めずらしい話だろうが。モラリストは全力をつくす。モラリストのモットーは「それにもかかわらず!」なのだ。

(引用ここまで)

無軌道な放蕩生活を送っているファビアンは、ゆがんだ鏡に写ったゆがんだ主人公であり、時代を真っ向から見つめるという正しい姿勢で臨んだ作家ケストナーの誠意の塊なのだ。なるほど、これは納得である。ファビアンがいくら無軌道に見えようと、ときに人を裏切ろうと、どこか清らかさが漂う。読者(少なくとも私には)の目には、共感できる真実味のある人物なのである。

人間を洞察し、生き方を探求するモラリスト。だんだんケストナーという人物に興味が湧いてきた。

映画『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』©Hanno Lentz/Lupa film

エーリヒ・ケストナーといえば、児童文学の作家としてしかほとんど認識していなかった。『エミールと探偵たち』『点子ちゃんとアントン』『飛ぶ教室』などは日本でも有名で、多くの人に読まれている。なので『ファビアン』を読んだときには、エロティックな描写も多く、風刺の効いたこのような小説を同じ人が書いたとはとても思えず、驚いた。

訳者である丘沢静也氏は〈訳者のあとがき〉で「児童物やエッセイを書くケストナーと、詩や小説を書くケストナー。ふたりは、別人のようだ。児童物やエッセイのとき、ケストナーは理想主義者で、ユートピアを信じ、夢見がちな顔を見せた。しかし、詩や小説では冷めた顔を見せている」と書いている。児童文学者としての顔しか知らなかった私としては、もうひとりのケストナーの意外な顔によりひかれるものがある。

いずれにしてもケストナーの本当の素顔など知るよしもないのだが、今となってはケストナーがファビアンに見えて仕方がない。一見、世の中を斜に構えて見ているようでいて、実は誰よりも真っ向から時代に向き合い、それゆえにもがいている。

映画『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』©Hanno Lentz/Lupa film

映画でファビアンを演じているのは、ドイツの人気俳優トム・シリングである。主人公が一杯のコーヒーを求めてアパートの部屋を出て、ベルリンの街を駆け巡る『コーヒーをめぐる冒険』(2013年)で脚光を浴び、『善き人のためのソナタ』でアカデミー外国語映画賞を受賞したフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督の『ある画家の数奇な運命』(2018年)では、ドイツ出身で最も重要な現代美術アーティスト、ゲルハルト・リヒターをモデルにした若手アーティストの苦悩の半生を演じた。懐疑的ではあるが、厭世(えんせい)的ではなく、人生に打ちのめされるが、汚れず、生き抜くしたたかなエネルギーがある。失望はするけれど、諦めはしない。今のドイツで、ケストナー的な資質を持ち合わせた俳優はおそらくシリングをおいて他にはいないのではないか。

それにしても、70年以上前に書かれた物語にもかかわらず、古さを感じさせないのはなぜだろうか。映画ではもちろん街も服装も1930年代の設定にほかならないが、ファビアンの不安、憤り、倦怠感、野心、そういったエッセンスは今日の若者のそれとほとんど変わらないように見える。

舞台となっている30年代のベルリンは、第1次世界大戦後のワイマール共和国の末期で混沌とした時代だった。ケストナーは、「残されたのは、錯綜(さくそう)した状態と、途方に暮れた人間だけ」と書いている。90年代にのんきな青春時代を送った筆者としては、モラトリアムな青年にも見えるファビアンだが、彼の戸惑いや混乱は思わせぶりでもなんでもなく、切実で本質なものだろう。

映画『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』©Hanno Lentz/Lupa film

この小説のもともとのタイトルは『going to the dogs』(破滅する)で、グラフ監督もこのタイトルを副題として採用している。映画の冒頭は現代のハイデルベルガー・プラッツ駅(1913年に建設された)から始まる。手持ちカメラは階段を下り、電車が滑り込んでくるホームを抜け、誰かの息遣いとともに階段をふたたび上り地上へ抜けたかと思うと、1931年のベルリンで息遣いの主であるファビアン(シリング)にたどり着く。このドキュメンタリー風の始まりによってグラフ監督は、二つの時代をつなぐ。また、2022年のドイツをワイマール時代と重ねるだけでなく、世界中が分断し、まひに陥ったあの時代と似ていると指摘する。

「ファビアンは時代を超えた存在だと思っています。あの時代のベルリンに完全に根ざしていながら、同時に時代の流れの中で異質な存在でもあった。彼は自分を取り囲む没落に巻き込まれまいとしながら、ほとんど喜々としてその記録者となっていました。しかしやがて、情動が彼を押し流していくのです」(グラフ監督)

時代のなかで自らの道標を失い、立ち尽くすファビアンに私たちは何を学ぶのだろうか。

映画『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』

Bunkamuraル・シネマほか全国順次公開

監督:ドミニク・グラフ

出演:トム・シリング

配給:ムヴィオラ

©2021 LUPA FILM / DCM Pictures / ZDF / Arte

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Text: Atsuko Tatsuta Editor: Kaori Shimura