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平野啓一郎のベストセラー『ある男』を映画化。珠玉のヒューマンミステリー

立田敦子の「話題の映画を原作で深掘り!」

2022.10.21

映画『ある男』 ©2022「ある男」製作委員会

今のすべてを捨てて生きることはできるのか?

平野啓一郎の『ある男』はとても映画的な小説だと思う。といっても、読んでいる端からスペクタクルな絵が浮かぶ、という訳ではない。むしろ、舞台となる場所も登場人物たちの動きも派手なわけではないので、映像化する側の腕が問われるタイプの小説といえるかもしれない。けれど、“人間”という迷宮にさまざまな角度で光を当て、何層ものレイヤーで切々と疑問を投げかけるストーリーは、一流の探偵小説を越えるほどのミステリーとして読み応えがある。

冒頭は、書き手である小説家が、この小説の主人公のモデルとなる同じ年の弁護士・城戸と、とあるバーで出会った体験から始まる(もちろん、これも小説のなかの作家なのだろうけれど、読み手としては平野啓一郎をどうしても想起してしまう)。作家は、城戸から奇妙な体験談を聞き、それに触発されてこの小説を書いた、という。

小説『ある男』 平野啓一郎著 ¥902 文春文庫刊

その話とはこうだ。城戸は以前、里枝という女性の離婚調停を担当したことがあった。里枝は2歳の次男を脳腫瘍で失っていた。調停ののちに夫と別れ、長男を連れて、実家の宮崎に戻った里枝は、家業の文房具店を手伝いながら静かに暮らしていたが、あるとき、よそからその小さな町に移り住んだばかりの谷口大祐と出会い、ほどなく結婚する。大祐は未経験ながら林業で生計を立てたいと真面目に働き、娘も授かるが、あるとき、木の伐採中に事故で亡くなってしまう。町に移り住んで4年、享年39歳だった。

大祐は生前、家族とうまくいかず、疎遠になっていた。その心情を慮(おもんぱか)って、彼の身内には大祐の死をすぐには知らせずにいた。しかし、一周忌を迎える頃、ついに実家に連絡すると、大祐の兄がすぐさまやってきて、事態は一転する。なんと兄は、祭壇の写真を見ると、実弟である谷口大祐ではない、というのだ。では、いったい里枝が結婚していた男は誰なのか? 里枝は以前、離婚調停で世話になった城戸に、亡き夫の身元調査を依頼する。

映画『ある男』 ©2022「ある男」製作委員会

弁護士・城戸を主人公に据え、城戸が里枝の依頼を受けてその男=Xの正体を探る過程を主軸に、物語は展開していく。もちろん、これだけでも物語は成立しうるだろうが、これに何人もの男の人生が綾織のように交錯していく構成が見事だ。

まずは、弁護士・城戸である。在日3世の城戸は、中学のときに苗字を「李」から「城戸」に改名し、さらに高校時代にオーストラリアに修学旅行に行くためにパスポートを取得する際に、両親とともに帰化したが、国籍に対して差別を受けた経験もなく、それゆえ、葛藤を抱えて生きてきたわけではなかった。自分の出自を意識するようになったのは、東日本大震災の際に、メディアなどで関東大震災時の朝鮮人大虐殺という史実を知ってからだ。自分の名前と国籍を意図的に変えた城戸が、過去をすべて捨てて、他人になりすまして生きてきたXという男に興味をもち、彼の人生を掘り起こすことにのめり込んでいく。

また、残酷な運命から逃れるため、谷口大祐という別人になりすましたX、そして、自ら名前を捨てた本当の“谷口大祐”。城戸を含め、この物語に登場する男たちは、本当の姿を偽って生きることを自ら選択した人間たちだが、これがすべて男性というのは偶然だろうか?

映画『ある男』 ©2022「ある男」製作委員会

冒頭、小説家がバーで弁護士・城戸に初めて出会ったとき、城戸は名前も経歴もすべて嘘をついた。

「他人の傷を生きることで、自分自身を保っているんです」

「……嘘のおかげで、正直になれるっていう感覚、わかります?」

小説は、ある意味、真実を語るためのフィクション(虚構)である。ならば、虚構を生きることで、自分に正直に生きるという選択肢もあるのではないか。

今、目の前にいる人が、自分が知っている人とは違う人かもしれないという「実在の不確かさ」は、すなわち「愛の不確かさ」にも通じる。

城戸は、里枝の死んだ夫のことを考えながらこう自問する。

「現在が、過去の結果だというのは事実だろう。つまり、現在、誰かを愛し得るのは、その人をそのようにした過去のおかげだ。遺伝的な要素もあるが、それでも違った境遇を生きていたなら、その人は違った人間になっていただろう。――けれども、人に語られるのは、その過去のすべてではないし、意図的かどうかはともかく、言葉で説明された過去は、過去そのものじゃない。それが、真実の過去と異なっていたなら、その愛は何か間違ったものなのだろうか? 意図的な嘘だったなら、すべては台無しになるのか? それとも、そこから新しい愛が始まるのか?……」

この自問は、比較的初期の段階で登場するのだが、この愛を巡る模索が全編を貫くことによって、この小説はラブストーリーとしても深度を増している。

映画『ある男』 ©2022「ある男」製作委員会

映画化は、恩田陸の『蜂蜜と遠雷』の映画化を成功させた石川慶監督の手に委ねられた。ミステリー、ラブストーリーの要素に加え、前述の差別問題のほか死刑制度といった社会問題が随所に登場する本作は、2時間ほどの尺にまとめなければならない映画の原作としてはてごわいが、城戸の目線から描くことに集中することで、心地よいテンションを保ち続ける上質のミステリーに仕上がっている。

城戸を妻夫木聡、里枝を安藤サクラ、X役を窪田正孝が演じているが、特に(原作のイメージとは違うが)安藤サクラの里枝が素晴らしい。幼子を亡くし、夫と別れ、再婚した相手も4年で失ってしまう。相次ぐ不運のなか、愛した人がまったくの別人だったという現実に虚(うつ)けながらも真実を知り、夫を理解しようとする女性をしたたかに演じている。地に足の着いた穏やかなその佇まいは、人生に抗おうとする男たちと対照的で、素直に愛情を注ぐことの美しさを体現している。

映画『ある男』

11月18日(金)全国ロードショー

監督・編集:石川慶

出演:妻夫木聡、安藤サクラ、窪田正孝ほか

配給:松竹

©2022「ある男」製作委員会

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Text: Atsuko Tatsuta Editor: Kaori Shimura