滋賀県近江八幡市の八幡堀沿いに立つ「旅籠 八…(はたご わかつ)」は、1日2組限定の古民家宿。2020年11月のオープン以来、古きよきものとモダンな感性が同居する空間と、地元の食材をふんだんに用いた絶品の料理で人気を博している。2022年夏には土壁の古い蔵の中で“醸し風呂”、つまりサウナを貸し切りで楽しめる「別邸 九.(ここのつ)」も誕生した。八幡堀の自然やこの土地の歴史に思いを馳せながら、ただ静かにくつろぐ――五感を研ぎ澄ませ、心をととのえたい人におすすめの宿だ。
滋賀県の中部、琵琶湖の東岸に位置する近江八幡は、のんびりとした気分で町歩きを楽しみたい人にうってつけのエリア。安土城跡をはじめとする史跡も多く、近江商人ゆかりの地には白壁をめぐらせた美しい蔵屋敷が立ち並ぶ。日本における西洋建築の父・ヴォーリズが手がけたノスタルジックな建築物の数々も興味深いし、建築家の藤森照信さんが設計した、和菓子の「たねや」グループのショップ「ラ コリーナ近江八幡」の緑あふれるユニークな施設も見逃せない。
「旅籠 八…」があるのは、そんな近江八幡の見どころのひとつである八幡堀のほとり。水路に沿って歩いていると、昔ながらの商家や蔵屋敷に風情を感じる。今から200年ほど前、この地に畳屋として建てられた旧喜多邸を改修し、誕生したのがこちらの宿。客室は「木の間」「石の間」の2室のみで、1日2組限定となっている。
「木の間」は旧喜多邸の離れを京都の数寄屋大工の手によりモダンに再生させた、一棟貸し切りのスペシャルな空間。旧喜多邸の時代から残る調度品と洗練されたインテリアの数々が違和感なくなじみ、空間の隅々までがすがすがしい“気”に満ちているのを感じる。ラウンジやリビングには大きな開口があり、その向こうに広がる庭や八幡堀の自然に目が安らぐ。光や風を感じながらくつろいでいると、時間が過ぎるのをつい忘れてしまう。
もう一方の「石の間」は、江戸当時の梁(はり)や瓦、土壁をデザインとして昇華させた特別室。京都の巨大な鞍馬石をくり抜いた(!)という圧巻の岩風呂に体を委ねるのは、ここでしか味わえない、瞑想的なひとときだ。
夕食は、日本料理「溜ル(たまる)」で。蔵にカウンターを設置したこぢんまりとしたレストランで、見上げると天井の一部が吹き抜けになっており、約200年前の大きな梁が歴史を感じさせる。最初に供されるのは、一杯の水。地元の清らかな水で心身をととのえてから、食と向き合ってほしいという願いが込められている。続いて、煮えばなの白米。オーナー自ら県内で育てたお米を信楽の土鍋で焚き上げたご飯は、つやつやと輝いていて、噛むほどに甘い。
さらに無農薬栽培の野菜、鯖街道を通った魚介、近江牛など、地元産を中心とする食材が目の前で調理され、次々と提供される。どの料理もパワフルでありながら洗練されていて、食べ疲れも胃もたれもしないのは、やはり素材のすばらしさと、京都で研さんを積んだ料理長の西澤剛さんの腕前のなせるわざだろう。
さて、昨年8月に敷地内にオープンした「別邸 九.」は、母屋と同時代に建てられた2階建ての蔵を改修。サウナとギャラリー、完全予約制のレストランの機能を備える。
こちらでぜひとも体験したいのは、1日1組限定のサウナ。愛好家にはおなじみの聖地、静岡県の「サウナしきじ」の娘であり、サウナプロデューサーとして活躍する笹野美紀恵さんが手がけたもので、イグサや薬草などの蒸気浴を楽しむ“醸し風呂”スタイルとなっている。蔵の中はほの暗く、なんとも神秘的なムード。着替えや休憩用のスペースがある2階から螺旋階段を降りると、甕(かめ)に井戸水をためた小さな水風呂と、洞窟のようなサウナスペースにたどり着く。
サウナの中に入ると、古い梁や土壁の残る空間にワラが敷き詰められていて、古代にタイムスリップした気分。温度は薪のストーブで一般のサウナよりも低温に保たれ、体の内側からじんわりと温まるのが心地よい。外気浴スペースも快適で、極上のリトリートを体験できる。
「旅籠 八…」にはこのほか、モダンな雰囲気のカフェや、鞍馬石や池を配した日本庭園なども。部屋でくつろいだり、のんびり歩いたりしながらあちらこちらを眺めていると、そこにあるものすべてが、丁寧に手をかけられたものであることに気づく。一つひとつが決して過度に主張することなく、でも、どれもがきちんとしていて、驚くほどに質が高い。
本物の贅(ぜい)とは何なのかを、自分の五感で味わうことができる。それが、ここでの滞在の魅力。リピーターが多いのも納得だ。
Editor: Kaori Shimura