自分はどこでどう死にたいか、考えたことはあるだろうか。病院か、自宅か。がんか、突然死か。一人か、誰かに看取られるのか……。
不安になる方もいるかもしれない。が、考えたところで死は教科書通りにいかない。また、みっともない死に方はいやだと思っていても、誰も自分自身の死体は見られない。したがって、「何も心配することはないんです」――。本書『死を受け入れること 生と死をめぐる対話』のなかで、東京大学名誉教授で解剖学者の養老孟司氏は、そう語っている。
本書は、養老氏と、訪問診療医の小堀鷗一郎氏の対談である。小堀氏は森鷗外を祖父にもち、40年にわたって外科医を務めた後、在宅医療に従事して400人以上を看取ってきた。共に東大医学部を卒業し、「死」を見つめ続けてきた現在82歳の二人が、患者や家族、自らの死をめぐる話題を中心に、タブーのない対話を繰り広げる。介護、終末期医療、家族や自身の死について考える際、ぜひ一読をおすすめしたい。
外科医時代の小堀氏にとって、患者の死は手術の失敗、敗北を意味していたという。「残念、救えなかった。また一敗か」という感覚。しかし、自身が歳を重ねて手術ができなくなった時、弱っていく高齢者を見て「その人らしい死に方とは何か」を考えるようになった。患者をどう「生かすか」から、どう「死なせるか」に向き合うようになったのだ。死に方を整えるのが、現在の仕事だという。
例えば、70歳を過ぎた息子夫婦と同居する105歳の女性。訪問した小堀氏は、息子夫婦の疲れ切った様子に家族としての限界を感じ、女性に施設への入所を勧めたという。本人の希望であれ、必ずしも在宅死が正解ではない。女性は施設に入所し、そこで亡くなった。また、89歳と高齢の糖尿病患者の男性。小堀氏は、訪問して検査や薬を処方するほかに、一緒に昭和歌謡を聞き、涙する時間に付き合うという。死に方を整えるとは、夫婦一方の死を、他方が受け入れる手伝いでもある。奥さんには、その時がくれば「もう十分、手を尽くしたよ」と伝えるつもりだ。
養老氏の言葉で印象的なのは、「死は常に二人称として存在する」というものだ。一人称、すなわち自分の死は見ることができないので、存在しないのと同じ。三人称の死は、自分とは関係のない人の死だ。その意味で、自分に影響を与える死とは常に二人称で、具体的だ。また、死を自分の問題と錯覚している人が多いという指摘に、目を開かされた。自分の死に対して、自分にできることはほとんどない。残す家族に委ねるしかないのだ。
「人の死亡率は100%」「死なせる医療」など、二人の言葉はぶっきらぼうなようで、どこか心地よい。極意に達した、安らぎのようなものを感じさせる。それは彼らが、「死」をありのままに受け入れているからなのだろう。含蓄ある言葉に、読み返すたび納得感の増す一冊だ。